全日本テーブル筐体愛好会新年会 in 三条市(Part 1)

あっという間に今年も1ヶ月経ってしまいました。
いつもなら今年の目標等を書いたりするのですが、そんなことやってる間もなく怒涛の日々が過ぎていきました。
昨年は非常に忙しかったのですが、当初の予定では今年はそんなに忙しくなる予定ではなかった・・・のですが、どうやら今年も忙しくなりそうです。
とりあえず途中でくたばらないように頑張りたいと思います。とにかくあれこれ考えてる間が惜しいです・・・。
という訳で1月は週末も予定が目白押しでした。
去る1月14日から15日にかけて、最近ここでもちょくちょく出てくる「全日本テーブル筐体愛好会」の新年会が会長(勿論会員No.1→因みに私は会員No.23です)ヒジヤンさんのお膝元の新潟県三条市にて開催されたので行ってきました。
昨年も同じ時期に新年会が開催されたのですが、私はスキーに行く予定を立てていたため断念しました・・・が、昨シーズンは暖冬で行こうと思っていた場所の積雪が何と0cm・・・という訳で宿泊先からわざわざ「キャンセルしますか?」と電話がかかってきて結局キャンセルした、という結末になりました。新年会行こうと思えば行けたじゃん・・・。
そんな訳で今回は昨年のリターンマッチも兼ねて何が何でも新年会に行くぞ、と決めていました。
・・・まさかあんなとんでもないことになるとは思ってもいなかったのですが・・・。
そうです、覚えておられる方も多いと思いますが、1月第二週の週末は超ド級の寒気が日本に押し寄せてきたんですよ。
そんな中雪国の新潟へ、しかも車で行くなんて無謀の極み・・・。しかし我々は行きましたよ!!!
「我々」、つまり私ひとりじゃなかったんです。
実は今回の新年会に是非とも私と一緒に参加したい、と隣の奈良からお声がかかったんです。
皆さん全日本テーブル筐体愛好会会員。会員No.85Q.P.さん、そのお父さん(は私の年齢に近い、ということで実は今回の新年会参加者で最年少がQ.P.さんでした)の会員No.165みつながさん、そしてキリ番会員No.100ながれさん。実は今年頭の三連休にこの皆さんで決起集会(?)的に一度うちの事務所に集まっていただいて応接室及び今は旧事務所にも置いてあるゲーム筐体で遊んだりして親交を深めてました。
そんな訳で新年会の前日。新年会の前に昼から色々と会長がイベントを企画して下さってましてそれに間に合うように行くには午前3時に出発しよう、と事前に決めていたのですが、やはり天気予報通り北陸方面は大荒れの天気になってました。そこへ会員No.100のながれさんから連絡が。「AM0:00に出発しましょう!」ええっ!?
・・・前日私は近畿税理士会で一日中会議がありまして帰宅したのが午後7時。それからあれこれ突貫工事で片づけて寝られるのがPM8:00。いい所4時間しか寝れないじゃん、と思いつつ何とか頑張りましたが、結局2時間くらいしか寝られずAM0:00になってしまいました・・・が皆さんちゃんと来られましたよ・・・。
いや、私とは違って皆さん隣とはいえ奈良から1時間はかかって来られてるんですよ。
こうなったら超ハイテンションで突っ走るしかない、と覚悟を決めて出発しました。

案の状滋賀県~福井県境辺りで風雪がきつくなってきました。しかし福井市付近~石川県~富山県辺りは案外順調に進めました。
何と言っても同じゲームという趣味で集ってる皆さんだけに会話も盛り上がり終始ハイテンションのまま。2時間しか寝てないはずなのに全然眠くなかったです。

程なく新潟県に入り先日大火事のあった糸魚川を過ぎてかつては難所だった親不知/子不知のエリアに。しかし今やこの辺りはトンネル地帯で案外雪の影響を受けなくなっています・・・がトンネルとトンネルの間は容赦なく暴風雪が襲い掛かってきます。しかし我々は果敢に進んでいきました。
実は会員No.100ながれさん、私の事務所の顧問先の社長でして、運送会社を経営されています。
かつては長距離の運転も経験されていたとのことで雪道の運転も慣れたもの、色々アドバイスも戴きまして非常に助かりました。
この人がいなければひょっとしたら我々は新潟まで無事にたどり着けなかったかもしれません。いつもお世話になってばかりですが、こんな場面でもお世話になるとは・・・本当にありがとうございました。

(↑:2年前にスキーに行った時の写真ですが)
それと今回使用したうちの事務所の営業車(冬場はスタッドレスタイヤに履き替えている&タイヤチェーンも持ってました→ながれさん曰く「山沿いにでも行かなければタイヤチェーンは要らないですよ」実際さすがにタイヤチェーンは不要でした))のホンダフィット(2代目)のタフさにも救われました。
普通のFF(前輪駆動)ですが、皆さんが普段乗っておられる他社の車とは全然違う、と絶賛されてました。
個人的にはんなもん当たり前だろ、と言いたくなったのですが。約40年前(は私が住んでいた彦根界隈も豪雪地帯でした)スバルが四輪駆動を出してくるまではホンダはFFで独壇場でしたから。
他社のFR(前にエンジンがあって後輪駆動)の車が走れなかった雪道をホンダの車はスイスイと走ってました。だから私の父はその頃からホンダの車を愛用していたんですよ(それがうちの事務所の第一号の顧問先へと繋がったんです)。


そんな訳でトンネル地帯(途中先日大火災のあった糸魚川を通過して)を抜けるといよいよ暴風雪が我々に容赦なく襲い掛かります。さすがに50km/hくらいでしか走れませんし、あちこちで車が横に突っ込んでました。何度も正に「ホワイトアウト」(目の前が真っ白で何も見えなくなる)になって怖い思いをしながら何とか10時間かけて三条市に到着しました。
三条市に着いたのはいいのですが、物凄い積雪でした・・・。
新潟というと「豪雪地帯」というイメージがありますが、横に長い新潟県全土が豪雪地帯という訳でもなく、実は新潟平野はあまり雪が積もらない場所なんだそうです・・・が、今回は尋常じゃない。地元の人でもこんな大雪は滅多に経験したことがないとのことです。えらい時に来てしまったものです・・・。
ようやく会長とも連絡が付いたのですが、会長はこの豪雪の中全国あちこちから来られる皆さんを迎えに行ったりでてんてこ舞い舞い。
仕方がないので我々はハードオフ(新潟発祥)等で時間を潰すことにしました・・・が私はこんな状況下だというのに顧問先から色々電話がかかってきたりしてその対応に追われてました・・・。
今回も長くなりそうなので今日はこの辺で。
とにかく到着するだけでも一苦労でした・・・がその苦労は報われるどころか本当に来て良かったと思うことが次々と起きました。
Part2に続く。

今年を振り返って

早いもので今年もあと数時間で終わろうとしています。
この1年を振り返ってみますと・・・まずここの更新は例年より多かったのではないか、と思いました(苦笑)
あれこれイベントがあったというのもありますが、それも含め今年は公私共に非常に充実していた1年だったのではないか、と思います。
今までやったことがないこともあれこれ経験しましたが、何とか上手くやり遂げられたのではないか、と思っています。
幸いケガや病気になることもなく(台湾でバスから転げ落ちたくらいですね・・・(苦笑))順調に過ごせたこともありがたかったですね。
そんな1年を振り返るにはどうすればいいのか、と思ったのですが、現在私はスマートフォンで撮影した写真が自動的にネット上のサーバーにアップされる「iCloud」というサービスを利用しまして、これを振り返るだけでも色々なことを思い出しました。先日ここで触れた台湾旅行を始めとして例年と比べてあちこちに行く機会が多かったと思います。

という訳で今年で一番印象的だったことは何か、と言いますと、意外かもしれませんが実は10月初旬に実家の町にて開催された「とりいもと宿場まつり」にてレトロアーケードゲームのイベントを開催して大成功した・・・ことも確かに印象深かったのですが、その際京田辺から彦根までアーケードゲーム筐体を運ぶのに生まれて初めて2tトラックを運転したことかなあ、と。
これだって先述の「今までやったことがないこと」ですからねえ。
カーナビが付いていなかったのでレンタカー屋さんを出発していきなり道幅の狭い住宅街で迷子になった際はどうなることか、と思いましたもんマジで。
何じゃそのオチは!?と思われた方も多いかもしれませんが、まあもうすぐ今年も終わりということでこの辺りでお開きにさせていただきたいと思います。
今年1年間皆様には本当にお世話になりました。
どうぞ来年もよろしくお願いいたします。
では良いお年を。

Childhood’s End(Part 3)

私の幼少時代を振り返る内容、今年中に完結したかったのですが、もう少し書きたいことがあるので完結は来年廻しになりました。
私の子供が9歳になって色々なことをするようになってきました。
しかし今時の小学生はちょっと忙し過ぎるのではないか、と言いたくなるくらいですね。
うちの子供は近所の公立の小学校に通っていますが、ちょっと前までのいわゆる「ゆとり教育」の反動か、かなり授業のスケジュールがタイトになっているのに加え宿題だけでなく自主学習(やるやらないは生徒の自由ですがかなりプレッシャーかけられる)もしないといけません。
放課後も週二回のそろばん教室、ピアノとバイオリンのレッスン、塾とまではいかないのですが週1回学習教室に通って土曜日は近所の軟式野球チームで練習(これは自分からやりたいと希望した)しています。あとスポットでテニス教室や水泳教室にも行ってます。
夜になるとバタンキューですぐ寝てしまうのも納得です。
・・・私が9歳の頃とは全然違いますね。
上記の中で私がしていたのはそろばん教室とスポットの水泳教室(いつまで経っても泳げないのにシビレを切らした親が無理矢理通わせた→近所の公営プールで開催されている水泳マラソン(1回上限1000メートルで2年以内に42.195km泳げば完泳になって表彰してもらえる制度)を2回完泳している今となっては信じられないことですが)だけでした。他には特に課外活動はしていなかったと記憶しています。
前からここでお話しているように当時住んでいた場所は本当に田舎だったのですが、その気になれば同じくらいのことは出来たかもしれません。実際妹はピアノ習ってましたし(私も習っておけば、と今非常に後悔しているのですが→今からスタートしても大丈夫?)。
当時はまだ家庭用ビデオゲームもありませんでしたし、ではその有り余った時間に私は何をしていたのか?実は本ばかり読んでいました。
あとプラモデルを作ったりもしていたかもしれませんが、小学3年生ですしまだ可愛らしいものしか作ってなかったのでは、と思います。
とにかく本を読むのが大好きだった。自身も読書が好きだった父親(税理士試験大詰めの時期であまり構ってもらえなかったのですが→私が小学4年生の時に5科目合格(正確には6科目受かってしまった→その結果法律の定めで合格証書を貰えなかったという事件があったのですが))は特に読書を勧めてくれていたと記憶しています。確か「(おもちゃはダメでも)本ならなんぼでも買ってやる」と言ってましたっけ。
で、それ以外のことにはほとんど興味がなかったんですよ実は。
話にならないくらい運動神経がなくて外で遊ぶのもあまり好きでなかったし他に何かやりたいことがなかったんです。
これも今となっては信じられないことですが、私はパッと見おとなしいいい子の様に見えるのですが、実際は何をどうすればいいのかわからない、ビジョンも何もない、だから何もしたくない、ただそれだけだったんですよね。
小学校の卒業文集に将来何になりたいかを書く欄があって既にその時税理士になりたい、と記載したことを覚えているのですが、それも単に父親が合格して間もない時期でそれが何なのか全く理解もせず単純に親の跡を継げたらな、と漠然と思っていただけだったりします。
今思えばそれで大正解だったと確信を持って言えるのですが。
そんな訳であまり我が家には私が読みたくなるような本が置いてなかったので必然的に学校や市立図書館に通ってあれこれ本を読み漁ることになりました。図書館に通うのはとても楽しかったですね。
それだけじゃ飽き足らず友達の家や親戚の家にうちに置いていない本があれば(正直厚かましいのですが)それを本棚から引っ張り出して読んだりもしていました。
母方の親元に遊びに行った際外に遊びに行こうともせず置いてあった百科事典ばかりむさぼるように読んでいたら叔父にひどく怒られたことがありました。しかし何でそんなことで怒られないといけないのだ、と不快に思ったりもしたものです。
今だったら逆にそんな言い方はないだろう、と言い返してたと思いますが、この頃は超弱気で何も言い返せませんでした。
叔父としては子供は外で遊ぶもの、という固定観念があったのかもしれません。あの時代なら猶更そうでしょう。
でも私はそういう考え方は納得がいかなかったです。何をしようが勝手じゃないか、指図なんかしないでくれ・・・しかし誰もそれを理解してくれる人がいなくて寂しい思いをしていました。
あと小学生時代はかなり病弱、というかすぐ風邪をひいていたように記憶しています。
これも今思えば考えられないことです(ここ数年風邪ひいていないような気がする&風邪ひいても休んでいられないので基本気合で1日で治すように心がけています)が、やはり「病は気から」と言うようにとにかく何事に関してもやる気がない、外に出て何かしたいと思わないという性格からそうなってしまっていたのでは、と思います。
その点私の子供は度々皆勤賞を取ってくるのは偉いな、と思います。
基本的に多忙な日々ですがそれらを楽しんでいるみたいなので。ここらは当時の私とは全然違うような気がします。
そんな訳で今のうちの子供と同じ年の頃の私は日々悶々としていました。
この頃に数年後に登場する初代ファミコンのような家庭用ゲーム(既に存在していたかもしれませんが、田舎で所得もさほどない家庭ではそんなものは高嶺の花でした)なんぞが存在していたらどうなっていたことか、と思いますが、それも含め私の周りの環境が劇的に変わっていく(というか変わりすぎてしまう)のはその数年後のことになります・・・。
続きはまた来年。

台湾に行ってきました




去る11月3日から11月5日まで台湾に旅行に行ってきました。
毎年恒例、近畿税理士会宇治支部の懇親旅行ですが、今回初めての試みとして海外旅行になりました。
平日を含む3日間、果たしてどれだけの人数が参加するのかが気になりましたが、蓋を開けてみれば予想以上の28名の参加、しかも女性会員も3名来られるという盛況ぶりでした。
私はこれまであまり海外には行ったことがありません。
大学時代が初めてでしたが、いきなりオランダ(滞在中にベルギーにも足を運びました)に6週間のショートステイでした(当時父が入っていたライオンズクラブの交換留学制度→その年の年末にうちもマレーシアからやってきた高校生と3週間一緒に過ごしました)。
ソビエト連邦崩壊の正に直前の時期でして、今はロシアの上を飛んでいけば案外ヨーロッパは近いのですが、当時はそんな航路は使えず香港から東南アジア~インド~イラン~トルコ上空からドイツのフランクフルトに着いてそこで乗り換えてようやくオランダに到着、延々15時間のフライトでしかも飛行機も生まれて初めてでエンジンの音がうるさくて15時間ほとんど寝られなかったことを記憶しています(今は速攻寝られますが)。
6週間のオランダでの生活は非常に楽しかったです・・・がホストファミリーの皆さんの歓迎ぶりがあまりにも凄くてくたびれてしまったことを覚えています。
オランダ/ベルギー以外では今回を除いて5回海外に行ってますが、その内4回が韓国だったりするんですよねえ。しかもソウルばかり。
初めて韓国に行った際は地元の人に案内してもらって非常に食事の美味い店に連れて行ってもらったのですが、悲しいことに行く度に食事が美味くなくなっていったような・・・。
2回目に韓国に行った際帰路の飛行機の隣席に座っていたのが実は私の妻だったりするのですが、当時は全く縁もなく普通に話する程度の間柄だったのですが・・・何がどうなるかわからないものですね(確か結婚する2年前だったかな?)。
3回目は顧問先の社員旅行に付いて行ってカジノで大勝ちした・・・のはいいのですが、帰国後すぐに名神高速で46km/hオーバーで覆面パトに捕まってしまい儲かったお金はほとんど罰金と講習代で消えてしまいました。泡銭は身に付かないんですよね。
韓国以外の残りの1回はオーストラリアへの新婚旅行でした。
私とは違い妻は独身時代海外旅行に行き倒してまして、私のリクエストはイタリアだったのですが「行ったことあるし」とのことであっさり却下、しかしあれだけ海外に行きまくってるというのに妻はこれまで南半球に行ったことがない、とのことで&私の子供の頃からの夢だった「南十字星」を見たい、という願いをかなえるためオーストラリアのケアンズに行き先が決定しました。これは非常に素晴らしかったです。南十字星もばっちり見れました。

そんな訳でオーストラリアの後5年前4回目の韓国に行って以来の海外が台湾でした。
色々と楽しかったのですが、観光地としては素晴らしいとはあまり思えなかったような気がします。
というのも実は非常に日本人にとっては居心地がいい、というか日本にある店が普通にあったりするんですよね。ファミリーマートとセブンイレブンは普通に至る所にありますし、くら寿司、ロイヤルホスト、ラーメンの一風堂、更には日本の普通の和食定食等が食べられる○○食堂(「○○」にはその場所の名前が入る→フジオフードシステムが展開する「まいどおおきに食堂」)までありました。
日本語は全然普通に通じますし、何というか海外に来てるという感覚があまりしなかったです。韓国の方がむしろ癖があるような気がします。
妻の初めての海外旅行は台湾だったそうですが、確かに日本人が初めて海外に行くなら台湾がベストじゃないかな、と思いました。


一通り台北の観光地には行ってきましたが、個人的にはあまりピンと来なかったです。
それと2日目に移動のバスから降りる際寝ぼけていてバスの中の階段からズッこけてしまい腰を強打するというトホホなことをやらかしてしまいました・・・。
今はもう大丈夫ですが、帰国後1週間程腰が痛くて痛くて堪らなかったです。
ただ観光地で「九フン(機種依存文字なので出ません→ニンベンに「分」)」は素晴らしかったと思います。あいにくの大雨でしたが、それがまた雰囲気があって良かったですね。滞在時間が短かったのが残念でした。
何でも雰囲気が似ているとのことで宮崎駿氏の日本映画最大のヒット作「千と千尋の神隠し」の元ネタでは、と言われたそうですが、宮崎氏本人が明確に否定したそうです。
確かに似てるといえば似てるような気はしましたが・・・どうなんでしょうか?

さて旅行の楽しみと言えばグルメです。
妻から台湾の食事は美味しい、と聞いていたのですが・・・場所が悪かっただけかもしれませんが、実は食事はイマイチだったような気がします。
というかそりゃねーだろ、と言いたくなるようなのもちらほらと。
というのも、屋台街に行ったのですが、そこで物凄くでかいソーセージを売っていてこれは美味そうと思って買ってみたらでかいのを1本そのままかと思ってたらその場で一部カットして更に細かくスライスして袋に入れて渡されました・・・拍子抜けしたのですが、それだけでなく、何故かほのかに甘い・・・。
普通この手の物はコショウがピリッと効いてる物ですが、甘いって何それ・・・?
気を取り直して別の店を見ると今度はまた超でかいフライドチキンを売っていました。美味そうなので即ゲットして噛り付くと・・・何でやねん、また甘い!!!
更にホテルの近くにマクドナルドがあったのでそこで日本でいうところの「バリューセット」を頼んで早速食べると・・・ハンバーガーのバンズが甘い!!!
妻は甘い物が好きなので台湾の料理は美味い、と言ってたとでも解釈しないと理解できなかったですね。

あと非常に参ったのがトイレですね。
ウォシュレットみたいな便利なものがある訳もないのは当然ですが、何が困ったって台湾では使用したトイレットペーパーを便器に捨てるのでなく隣に置いてあるゴミ箱に捨てるんですよ。
何でも下水管が細くてトイレットペーパーを流したりしたらすぐ詰まるのだとか。
「郷に入らば郷に従え」とは言いますが、これは何とかして欲しいものですね。
そんな訳でかなり目まぐるしい台湾行脚でしたが、あっという間に楽しい時間は過ぎていきました。
今回これだけ大盛況だっただけに来年以降企画する方はさぞかし大変かと思いますが、更に楽しい企画を考えて欲しいですね。
期待しております。

とりいもと宿場まつりに参加 ~当日編~

もう2週間近く前の話になりますが、去る10月2日(日)に開催された「とりいもと宿場まつり」いよいよ当日です。
前日のトラブルや忘れ物が多かった(&2tトラックでは実家の村の道を通れない)ため当初は実家に泊まる予定をしていましたが、一旦京都に戻ることにして翌日早朝に電車で会場に向かうことにしました。
京田辺から彦根までは電車の乗り継ぎが上手くいけば案外時間がかかりません・・・が休日は早朝時間帯には新快速が走っていないのでそうもいきません。止む無く新幹線で米原まで行ってそこから近江鉄道(米原駅は近江鉄道の始発駅でもある)で鳥居本まで行くことにしました。



米原駅では切符にハサミを入れるという昔ながらの懐かしい光景を見ました(切符が厚紙というのも昔のまま)。私が子供の頃と何も変わっていない・・・。
基本今の近江鉄道はワンマン運転になっていて整理券と運賃を運賃箱に入れるor駅員に渡すという方法を取っているのですが、改札に駅員が居る駅では昔そのままです。
私がレトロアーケードゲームのイベントを行うのに合わせたかのようなレトロな光景でした。

鳥居本駅の駅舎は最近知名度が上がってきました。
これも私にとっては昔から見慣れた景色でして特に珍しく思わないのですが、言われてみると非常にユニークなんですよね。

会場に着いて前日動かなかった「ゼビウス」の調整からスタートしました。
前日の段階では電源ユニットの調子が悪いのでは、と思い予備電源を持ってきたのですが、京都に帰ってひょっとしたらヒューズが切れているだけでは、と思ってチェックしてみると、やはりそうでした。
しかし私が持っていた予備のヒューズは1A(アンペア)なのに対し元々刺さっていたヒューズは3A(アンペア)。1Aのヒューズを繋いでも細すぎてすぐ切れてしまう。
止むなく使っていない電圧のヒューズに付け替えてみましたら無事稼働!!!
・・・しかし今度はブラウン管モニターの調子が悪くなってきました。やはり物が古いだけに画面が段々ボヤけてきます。
何とか見れないこともないのですが、どうもいまいち。でもとりあえず遊べるのでそのまま稼働させることにしました。


いよいよイベント開始時間の10時になりました。
始まって間もなく目ざとく見つけた近所の子供たちがテーブル筐体に張り付きました。その内大人もやってきてあっという間に賑やかになりました。
ネット上で事前に告知していたのを見て遠路はるばる名古屋や横浜から来られた方もおられました。
近所の方ですが、熱狂的なレトロゲームファンの方が「こんなのがあるなんて・・・」と驚愕されたり、更には私の事務所の顧問先の社長も家族連れではるばる奈良から来られました。

この社長、その昔お父様がゲームセンターを経営されていたそうで、店の閉店後自分の遊びたいゲーム基板を出してきて&変換ハーネスも自分で製作して遊んでおられたという実は筋金入りのゲーマーだとのこと。それが証拠に難易度の高い「グラディウス」で見事なプレイを見せてくださいました。奥様は「こんなパパ見たことない・・・」と驚いておられました。

近所の小中学生にとっては今から30年近く前のレトロアーケードゲームはとても新鮮に見えたみたいで、次から次からやってきてはのめり込んでいたのが非常に印象的でした。
ルールはシンプルですが非常に面白い「アルカノイド」「パックマン」が特に受けてました。
ただ私も驚いたのは彼ら彼女らがこれらのゲームの内容を知っていたことなんですよね。「ゼビウス」で3面以降に飛んでくる破壊不可能な「バキュラ」を256発ザッパー(対空中物攻撃用ショット)当てたら壊せる、というガセネタも知ってるんですよ。そんなことどこで知ったんだ・・・。CS放送で大人気のレトロゲームバラエティ番組「ゲームセンターCX」の影響もあるのかもしれませんね。



残念ながらその「ゼビウス」は結局ヒューズも古いからか差し替えた物も全て切れてしまい予備がなくなってしまったので途中で使用不可能になってしまいました。これだけが今回のイベントで唯一残念なことでした。
むしろ私はただでさえ脆弱なバブルシステム版「グラディウス」が故障しないかどうかが最大の気がかりでしたが、こちらは全然大丈夫でした(京都に帰ってから動作確認してもバッチリ動きました)。
「グラディウス」は当時いろいろな意味で衝撃を与えたゲームですが、ボタンが3つある(今では格闘ゲーム等でボタン6つ使う物もあって全然珍しくもないことですが)というだけでも非常に難しいゲーム、と思われていました。そんな訳で最初は敬遠されていたのですが、上手いゲーマーの模範プレイ(含私(笑))を見た皆さんがコツを掴んで最初は何も装備がなくて丸裸状態の自機がパワーアップしてレーザーやオプション(自機の分身→自機と同じ攻撃力を持つ。最大4つまで装備できるので最強装備になると画面全体を攻撃できる圧倒的な破壊力を得られる)を装備してド派手に攻撃できるようになったり3面のモアイステージのような非常にインパクトのある(&激ムズな)ステージに進めるようになって「うおー凄げー!!!」と大興奮されていました。その頃には「グラディウス」も黒山の人だかりになっていました。けどこれ31年前のゲームだぜ・・・!!!

残りの一つ「スペースインベーダーアニバーサリー」もなかなか人気はありましたが、意外なことに他のゲームよりは人気がなかったような気がします。やはり「アニバーサリー」では弱かったか・・・。
もしまた別の機会があればその時はオリジナルの「スペースインベーダー」を持ち込めるように努力したいですね。

そんな訳で楽しいひと時はあっという間に過ぎ去り終了時間の午後3時になりました。
撤収作業&2tトラックへの搬入作業は地元の皆様のご協力もあってスムーズに終了、しかし最後の課題として京都まで持ち帰ったゲーム筐体等の積み下ろし作業が待ち構えています。
本当は打ち上げに参加したかったのですが、積み下ろし作業は一人でしないといけませんでしたので(それにトラック運転して京都まで帰らないといけませんからお酒は飲めませんし)大事を取って早々に退散しました。
無事京都に戻って(2tトラックの運転にもすっかり慣れました→因みにマニュアルシフト車でしたが、普段からマニュアル車に乗ってますのであまり抵抗はありませんでした)早速積み下ろし作業に取り掛かりました・・・が案外あっさりと終わってしまいました。
荷物を上げるのはきついのですが、降ろすのは上手くやれば案外楽に終わりました。確かに持ち上げたりする場面もあったのですが、「てこの原理」を使えばあっさり解決するんですよね。
この歳になると重い物を持つ際は腰痛にも気を付けないといけませんが、ほとんど腰にも負担がかかりませんでした。こんなことなら打ち上げに参加しても良かったかなあ、と・・・。
翌日の朝無事レンタカー会社に2tトラックも返却、後日今回使用したゲーム筐体及び基板の動作確認して全て異常なしでした(「ゼビウス」の筐体はとりあえず新しいヒューズを購入して動作確認だけはしましたが、ブラウン管モニターは要交換ですね)。
という訳で今回何もかも初めての経験だったレトロアーケードゲームのイベント、「ゼビウス」は残念でしたがそれ以外は大成功と言ってもいいのではないか、と思いました。
本当に多くの来客の皆様が「来年もやって欲しい」とおっしゃってました。
一番受けていたのは(個人的には意外でしたが→「パドルシフト」は慣れないと操作が難しいと思うので))ブロックくずし「アルカノイド」でしたが、初めて見る子供たちは次々と「これ何ていう名前のゲーム?」と聞いてきて私が教えると「後で家帰って(インターネットで)検索するわ!!!」と言ってました。正にレトロと現代の邂逅ですね。
この場をお借りいたしまして今回のイベントにご協力いただきました「鳥居本お宝発見隊(http://toriimototdp.blog.fc2.com/)」の皆様、ゲーム筐体等の搬入を手伝ってくれた私の妹、備品を貸していただきました「全日本テーブル筐体愛好会(http://bz504178zb.blog.fc2.com/)」の土屋会長、そして暑い中たくさんご来場いただきました皆様に厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
来年また皆様にお会いできることを期待&楽しみにしております。

とりいもと宿場まつりに参加 ~準備編(Part3)~

いよいよ「とりいもと宿場まつり」前日。
これまでの準備作業もいろいろありましたがむしろここからが大変。
というのも京田辺市から滋賀県彦根市まで整備したゲーム筐体その他備品を運ばないといけません。
しかもいつ壊れるかわからない30年近く前の筐体や基板。
更にゲーム筐体は1台約60kgもあります(‘90年代に出てきたアップライト筐体のことを思えばまだましですが→私もセガの「エアロシティ」という筐体を所有していますが、こいつは100kg超あります・・・)から。
さてどうすんべ、と考えてレンタカーを調達することにしました。
今回ゲーム筐体5台に加えてゲーセン椅子やポスターや看板その他いろいろ備品、それとメンテナンス用ツール(工具箱ですが、実はこいつもべらぼうに重い→他に電動ドリル等)も持っていかないといけません。
とにかく重いゲーム筐体のことを考えるとパワーゲート付きのトラックを借りるのがいい、とアドバイスを受けたのですが、近所のレンタカー屋さんでは取り扱ってなくて結局奈良の大和西大寺まで行かないと調達できませんでした。しかも2tロングトラック・・・そんなでかい車運転したことないのですが・・・。

そんな文句言ってる間もなく彦根に搬送する日になりました。こうなったらやるしかない。
実際に見る2tロングトラックはやはりでかい・・・。
一通り操作方法(含パワーゲート)を説明してもらって早速京田辺に向かいました・・・がいきなり道に迷うorz実はこのトラックにはナビが付いていなかったんですよ。住宅街の狭い道で右往左往。いきなり冷や汗まみれになって何とか国道24号線にたどり着けた時はこりゃ前途多難だな、と思いましたよ。
因みにこのトラックは6速マニュアル。マニュアル車は普段から乗っているので楽勝・・・と言いたい所ですが、2tトラックはクラッチも重いし何よりでかい。
レンタカー会社の担当者にも注意されたのですが、車体が長いだけに周辺を巻き込まないように交差点では大回りしないといけません。しかしミラーはでかいしバックミラーの代わりに付けてあるバックモニターが非常に役に立ちました。何事も慣れですね。
往路はおっかなびっくりでしたが、復路は完全に慣れてました。

そんな訳で何とか京田辺に着いていよいよ荷物の搭載。
ありがたいことに私の妹が手伝いに来てくれました。
正直妹がいなければスムーズに作業は終わらなかったと思います。しかしゲーム筐体の鍵が行方不明になって予定より30分遅れてしまった。更にその後雑用で時間取られて結局出発したのは予定より1時間後。
運転にも慣れてないしいつものようにスピードアップして間に合わせる訳にもいかず。
午後2時半頃ようやく彦根に到着しました。
しかし会場の中山道の宿場町は非常に道幅が狭いのに加え案外交通量が多い。そんな場所に2tロングトラックで荷卸しってどうするんだ、と考えてる間もなく次から次へと車が通る・・・。
幸い「とりいもと宿場まつり」のスタッフの皆さんがすぐ来てくれて何とか邪魔にならないようにトラックを置けて荷物の積み下ろしも無事完了しました。
荷物の積み下ろしが終わっても私は当日きちんと動くようにセットアップ作業をしないといけません。
特に今回は非常に壊れやすいことで有名なバブルシステム版「グラディウス」を持ってきています(念のため予備として壊れにくいROM版も持ってきていましたが)のでドキドキしながら動作確認しました・・・が、どうも「ゼビウス」が調子悪い・・・どころか動かなくなってしまいました。テスターで調べてみました(こういうことがあるから重いけど工具箱は必須なんです)が、どうも+5Vの電流が流れていないみたい。実はヒューズが切れていただけだったのですが、電源ユニットの調子もあまりよくなくて結局イベント当日は動かすことが出来なくなりました。
しかし他の筐体は無事稼働しました。「グラディウス」も無事でした。



約1時間でセットアップ作業は終了。しかしここで困ったことが。
当初はこのまま実家に宿泊する予定をしていたのですが、2tトラックでは実家の村の狭い道を通ることは不可能・・・。
どうしよう、と思ったのですが、実は色々と忘れ物をしていたことに気付いたのでトラックを置いて一旦京都に戻って翌日再び鳥居本に戻ることにしました。
そんな訳で久々に近江鉄道に乗ることになりまして、JR~近鉄と乗り継いで何とか夜8時頃に京田辺に帰りました。
翌日は早いのですぐ寝ました。いよいよ当日。

とりいもと宿場まつりに参加 ~準備編(Part2)~

前回の続きです。
買うだけ買って放置していたビデオゲーム筐体を今回のイベントで使うことにしたのですが、メンテナンスが出来ているか否かもわからない状態で、もしメンテナンスが完了していたとしても導入するゲームに応じて調整作業をしないといけませんし、無料で遊べるようにするためクレジット(通常100円→お金を取って営業するには風営法の許可が必要・・・も何も多分今回のイベント会場のエリアでは都市計画法上の用途地域の制限に引っかかるはず)投入ボタンを増設しないといけません。
そんな訳で9月上旬からこれらビデオゲーム筐体を置いていた旧事務所(今の事務所の道を挟んで向かい、自宅の北側)にて作業を開始しました・・・がここで早速問題が。
旧事務所を事務所として使っていた頃は当然エアコン完備でしたが、もう使うこともないだろう、と思って電源ごと使用不可にしていたのです。
更に今年の夏は残暑が厳しかった。そんな訳でかなり暑い中作業を進めざるを得なくなりました。使えるのは扇風機だけ。熱中症に気を付けながら汗だくになりながらの作業でした。

更に問題となったのは天井の雨漏り。以前このブログでも触れたように事務所移転の最大の理由は地盤沈下でした。
その結果事務所が傾いて隙間が生じて事務員の机の上の天井から雨漏りがするという事態になってしまいました。
事務所移転から約3年、天井のひび割れは写真の通りひどい状態になって横殴りの雨になると雨漏りも激しくなってきました(多分建物の傾きで壁に隙間が生じていてそこから雨が入ってきているものと思われる→故に横殴りの雨でないと雨漏りが起こらない)。作業中もポタポタ雨漏りが起きることもしばしばでした。早く何とかしないといけないのですが・・・。


いろいろと悩ましい環境ですが作業はしないといけません。
まずは「アルカノイド」純正筐体の整備からスタート・・・したのですが、結論から言いますとこの筐体の整備は途中でストップしてしまいました。
元々故障していた(写真では稼働していますが音が鳴らないし操作も出来ない)のですが、配線が複雑すぎて原因を突き止めるには時間が足りませんでした。





ボロボロになっていた説明書を強力粘着剤剥がしできれいに取り除いたり、非常に汚くなっていたパドルシフトをカビキラーまで導入してきれいに洗浄&グリスアップして見た目は非常にきれいになりました・・・が、銀杏の殻が筐体の中にたくさん落ちていたのが謎でした(とにかく全体的に汚かった・・・)。その一方100円玉が2枚落ちていたりもしてちょっとラッキーでした。


結局アルカノイドはもう一台筐体があった(こちらもサミー製(現セガサミーホールディングス→パチンコで大きくなってセガと経営統合したのですが、元々サミーもゲームを作っていた会社)の結構貴重な筐体と思います)のでそちらを整備することにしました・・・が、こちらの整備でもパドルシフトのネジを締め過ぎてねじ切ってしまうというアクシデントに巻き込まれたりしました。力任せに締めてはいけません・・・。




最初から躓いてしまったのですが、「ゼビウス」「パックマン」を導入したテーブル筐体の整備はあっさり完了しました。
「ゼビウス」を導入した筐体には元々「テトリス」が搭載されていましたが、コンパネ(コントロールパネル)は内部がかなりボロボロになっていましたのでよりきれいな物に取り替えしました。
「パックマン」を導入した筐体に付いていたコンパネは悪くはなかったのですが、テーブル筐体ならではの交互プレイ(プレイヤー1とプレイヤー2がそれぞれテーブルの反対側に座ってプレイ→交代する時画面が反転する)が出来るようにコンパネを2つ付けてみました。

「スペースインベーダーアニバーサリー」は昔よく駄菓子屋の軒先等に置いてあったアップライト筐体に導入しました。
これは当初ブラウン管が横画面になっていたのを縦画面に変更していますが、案外取り付けが窮屈になっていて変更するのに一苦労しました。
この手のアップライト筐体はオレンジ色のものが多かったと記憶しているのですが、昔はあれだけ存在していたのに今は見かけることもあまりありません。
置くスペースもあまり取らないのですが、どこかに程度のいい物が残っていないのかなあ、と思います(オークションでちょくちょく出てくるのですが、どれも非常に状態が悪いものばかりなので)

そして最後に整備したのがいわゆる「空筐体」。
テーブル筐体ですが、電源とその配線及びコインシューター(100円玉投入口)だけが付いていてブラウン管モニターなし、コンパネもなし、当然ゲーム基板もなし、という代物です。
逆に言えば整備する能力があれば自分の好きなようにカスタマイズできる(&かなり安い値段でゲットしています)という訳です。

当初この筐体に「スペースインベーダーアニバーサリー」を導入したのですが、2レバー12ボタン(以下「2L12B」)というインベーダーにはそこまで要らないだろ、と思えるコンパネを導入した時点でここに「グラディウス」を導入したら面白いぞ、と思って換装を試みたのですが・・・まさかこんなことになろうとは・・・。

「グラディウス」は非常に特殊な電源が必要になるのでまずそれを変える所からスタートしました。それに伴い配線も特殊になりますのでそれらを整備、無事稼働させることに成功した・・・のはいいのですが、どうも2L12Bのコンパネのボタンが小さすぎて遊ぶのがしんどいことに気づきボタンが大きい2L6Bのコンパネに換装することにした・・・のですが、その作業中突如「プシュー」と空気の抜けるような音がしました。
嫌な予感は的中、ブラウン管モニターが悲鳴を上げて映らなくなってしまいました・・・。急遽予備のブラウン管モニターを引っ張り出して何とか映せるようにしたと思ったら今度はバブルシステム版「グラディウス」の基板が故障してしまいました。何もこんなタイミングで壊れなくてもいいだろ、と言いたくなりましたよ・・・。
「グラディウス」の基板は上下2枚の別々の基板を繋いでいるのですが、元々この上下をジャンクとして購入していたのですが繋いでみたらたまたま動いた、という代物でして、正に超ラッキーだった(ジャンク基板だけに相場よりはるかに安かった)のですが、所詮ジャンクですから壊れても仕方がなかった、ということなのかもしれません。気を取り直して別のバブルシステム基板を接続してようやく稼働にこぎつけました。


何とか5台の筐体の整備を終えて4台のテーブル筐体用に段ボールで囲いを作りました。
テーブル筐体は部屋の照明をモロに受けるとモニターが見えにくくなるという欠点がある(だから’80年代のゲームセンターは暗かった→これが犯罪の温床になるだの何だのネガティブのイメージに繋がっていた)ので、それを克服するため実際当時のゲームセンターでもこうした簡易な囲いを置いていた所が多かったと記憶しています。
’90年代以降の明るくなったゲームセンターのイメージしか知らない人にとっては奇妙に思えるものかもしれませんが、実際にこの囲いを用いてみると一目瞭然で効果を実感することが出来ると思います。今回大量に調達したゲーセン椅子同様当時の雰囲気を再現するための小道具ですね。

あと私なりに今回使用するゲームに関する紹介文も作成したり、「全日本テーブル筐体愛好会」の活動内容の紹介(昨年5月に京都・山科で開催したイベントの模様も掲載→前編後編)も作成してみました。
更に場の雰囲気を盛り上げるため「ゼビウス」のポスター(正確にはパンフレットの表紙をポスターとして復刻したものです→当時のA1サイズのポスターのデザインとは違います)や映画「ピクセル」(「パックマン」「スペースインベーダー」「アルカノイド」はこの映画で登場しますので)のポスターも準備しました。
さて、持ち込む筐体等の準備は完了したのですが、最大の課題はこれらを無事会場の滋賀県まで運び込んで故障なく稼働させて無事撤収させて京都まで持って帰れるか、ということです。
今回は一度に約60kgあるビデオゲーム筐体を同時に5つ運ばないといけません(その他前述の備品類、あとメンテナンス用具等も)ので、必然的にトラックが必要になります。そこでパワーゲート付トラックのレンタカーを借りることにしました・・・が、実は私この手のトラックを運転した経験がほとんどないに等しいのですよ・・・。
荷物の搬送やトラックの運転に関していろいろな方からアドバイスは戴いてますが、果たして上手く事が運ぶのでしょうか。
ここまで来たらやるしかないですし何事も経験ではありますが、さすがに不安が大きいですね。
当日無事全てが終わることを祈りたいです・・・。

とりいもと宿場まつりに参加 ~準備編(Part 1)~


私が中学2年の頃まで住んでいた滋賀県彦根市の故郷の鳥居本地区はかつて中山道の宿場町でした。
その鳥居本にて毎年10月初旬に「とりいもと宿場まつり(http://toriimototdp.blog.fc2.com/)」というイベントが開催されています(今年は10月2日(日)に開催)。
今年で9回目を迎えますが、ここ数年私も事務所として協賛すると共にイベントの様子を見に行ってます。
実は鳥居本地区は今年の大河ドラマ「真田丸」に重要な役として登場した(2009年の「天地人」でもそうでしたが)石田三成の佐和山城下でもありまして、ここ数年の石田三成再評価の流れと連携して石田三成絡みのイベントも開催されている他様々なイベントが盛り沢山で年々訪問者も増加しているとのことです。
このイベントに何らかの形で参加できたらいいな、と実は数年前に初めて訪問した頃から漠然と考えていたのですが、ここ数年私もお手伝い等で参加している「全日本テーブル筐体愛好会(https://www.facebook.com/cocktailcabinet)」(因みに私は会員番号No.23です)主催のレトロアーケードゲームが無料で遊べるイベントを私が自前で出来ないか、とふと思いつきました。
以前からこのブログでも取り上げているように事務所二階の応接室をゲームセンターっぽくしてみたりあれこれレトロアーケードゲームに関するノウハウを自分なりに積み上げてきたと思うのですが、これまではあくまで私的に自分のためだけに行ってきただけで、対外的に不特定多数の方に遊んでいただくことはありませんでした。
しかし全日本テーブル筐体愛好会主催のイベントは毎回非常に盛り上がっていますし、私も事務所二階にて友人等を招いて何度か一緒に遊んだ際も異様に盛り上がってとても楽しいひと時を過ごしていますので、この楽しさをもっと多くの方々にも体験して欲しい、という思いは前から持っていました。
そんな訳で今年の5月に「とりいもと宿場まつり」の主催者に今年の宿場まつりでレトロアーケードゲームを無料で遊んでいただくスポットを開催したい、とアプローチしてみました。
正直こんな企画はこういうイベントではどうなんだろうか、と不安に思っていたのですが、非常に関心を持って戴きまして即開催OKと快諾していただきました。
場所の問題もあったのですが、ありがたいことにかつての同級生の自宅横ガレージ(かつて私と同業で会計事務所を経営されていたそうでその跡地だそうです→レイアウト的には文句なし)をお借りすることが出来まして天候の心配も要らなくなりました。
さてそうなると私の方でイベント開催の準備をしなければなりません。
以前から事務所二階等に置いてある整備済筐体とは別に数台のアーケードゲーム筐体を入手していたのですが、実は買うだけ買って現事務所の向かいにある旧事務所に放置しておいただけなのです。
まあその内整備したらいいだろう、と思っていたのですが、急遽ほぼ全ての筐体をちゃんと動く状態にする&無料で遊んでいただけるようにちょっとした改造を加えないといけなくなりました。
まずはゲームのチョイスですが、何せ私にとっては初めての試み&どのような客層になるのか全く読めませんので、ド定番&有名なゲームにせざるを得ない・・・のですがやはり私の好みも加えたい、しかし筐体の台数も限られている(ガレージのキャパシティもさほど大きくないですし)のであれこれ考えた結果「スペースインベーダー」(1978年:タイトー)「パックマン」(1980:ナムコ)「ゼビウス」(1983:ナムコ)「アルカノイド」(1986:タイトー)の4つに決定しました・・・が、「スペースインベーダー」のモニターの調整がどうも上手くいかず「スペースインベーダーアニバーサリー」(2003年)に変更することにしました。
このゲームは「スペースインベーダー」25周年を記念して発売された作品で、細かい相違点はありますが、1978年当時のインベーダーの雰囲気は十分に味わえる(しかも当時発売された様々なタイプのインベーダーを選んで遊べる)ことと、約40年前の貴重なオリジナル版「スペースインベーダー」が何らかの原因で壊れるのが惜しい、というのが理由です。ぶっちゃけ妥協ですね。でもモニター調整が間に合っていればオリジナル版を持っていきたかったのですが。
更にスペース的にはもう一台置けそうなのと、私個人的にどうしても持っていきたかったという理由で先述の4台に加え「グラディウス」(1985:コナミ)を追加しました。
しかし以前このブログでも書いたように非常に希少価値が高く壊れやすいことでも有名な「グラディウス」、実は今回のメンテナンス作業中にも「バブルシステム」版基板が1つ壊れてしまいました・・・。かなりショックでした・・・が、実は今回壊れた基板は元々ジャンク基板として上下別々(「グラディウス」の基板は上下2枚の基板を合わせて使う)にオークションに出品されていた物をかなり安い値段で落札したものでして、動いただけでも超ラッキーだったという代物でした。
ここまでよく持ってくれたものだ、と思っているのですが、とりあえず今回の最大の要注意点はこの壊れやすいバブルシステム版「グラディウス」を約100km離れた場所まで持って行ってイベント当日約5時間稼働させて壊さないで持って帰れるか否か、だと思います。
しかしこの手のイベントで滅多に登場しない「グラディウス」を皆さんに楽しんでもらいたい、という私の願いが叶うこと(&壊れないこと)を祈りたいのです。

・・・何かしらここまででもかなり長くなってしまいましたね。これは2回に分けないといけませんね。
という訳で次回は実はかなり四苦八苦した具体的なメンテナンス作業について触れたいと思います。
(上記写真通りメンテナンス作業や当日の展示品等の準備は完了しています)

Childhood’s End(Part 2)

前回の続きです。滋賀県時代の思い出話。
そもそも何でこんなことを書こうと思った、いや正確には以前から書こうと思っていたことを思い出したのかというと、先日故郷彦根の顧問先でひょんなことで昔話になったからでした。
滋賀県時代に通っていた小学校/中学校(公立ですが今は小中一貫校になっているそうです→生徒数が激減したから?)のプールの水が異常に冷たくて泳ぐのが辛かったことを唐突に思い出したのですが、そこからよくこんな環境の場所に住んでいたなあ、という話になっていました。
それは今住んでいる京都との比較だけでなく、顧問先のある彦根の市街地と私が住んでいた彦根市の北端の山寄りの場所(10kmも離れていない)の学区とを比較しても全然違う、ということです。
プールの水が冷たいのは今思い出しても尋常ではなかったです。唇が青くなってた生徒がいたように記憶しています。
基本的に私の子供時代、すなわち今から30~40年前は今より平均気温が低かったと思います。真夏でも最高気温は30℃くらいで32℃でも暑くてたまらない、と思っていました。
そんな訳で震えながらプールに入っていた(因みに今私はその気になれば500mくらいはノンストップで泳げますが、当時はまともに泳げませんでした・・・が小学6年生の頃ようやく50mは泳げるようになっていたと記憶しています)のですが、本当に辛かったです・・・が生徒全員条件は一緒だしそれで当たり前なのかな、とも思っていました。
琵琶湖や市街地にある市民プールだったら水温も暖かかったのですが、本来それが普通ということに気付いてなかったんですよね。
但し当時の琵琶湖は非常に水が汚かったのですが。生活用水垂れ流しでしたからねえ。よくあんな場所で泳いでたもんだ・・・。
そう、「生徒全員条件は一緒」ということで錯覚していたのかもしれません。
当時の私は今思えば何と劣悪な環境なんだ、と思える当時の環境を当たり前と考えていたみたいです。
とにかくあの頃は何もかもが「狭い世界」でした。
まず実家のあった場所が山に囲まれていたため空が狭かったですから。そしてその空は高かったです。
あの頃は飛行機が高い場所にきれいな飛行機雲を描いて飛んでいくのをよく見ていました。
私の叔父から聞いた話ですが、今から70年近く前太平洋戦争の終戦直前には北陸方面に爆撃に向かうB-29「スーパーフォートレス」がきれいな飛行機雲を描いて北に向かって飛んで行ったとのことです。こんな田舎の村には爆弾落とすこともなかったんでしょうね。
そして先述の通り今から30~40年前平均気温が低いのは夏だけでなく冬も然り。
当時は12月に入るや否やドカドカと雪が積もり少し溶けたかと思うとまた積もり・・・で冬の間は真っ白な光景が続きました。
さすがに北陸や東北地方の様に何メートルも積もることはなかったですが、1メートルは普通に積もってました。3月上旬でも1メートルくらい積雪があったことも記憶しています。
彦根市の除雪車(というかブルドーザー→戦車みたいに無限軌道が付いているので雪を退けてくれるのは有難かったのですがブルドーザーが通った後道路のアスファルトがボロボロになった)がやってくるのが昼過ぎになったりしてひどい時はふもとの町にある学校に行けなかったこともありました・・・が「雪が多すぎて学校に行けません」と電話で連絡したら「何言うとるんじゃ授業やってるぞ!!!」と言われて無断欠席扱いになったこともありました・・・。
確かに社会人の皆さんは雪道を歩いて勤務先に行かれましたが、さすがにこれは理不尽だな、と思ったものです・・・が、税理士試験に合格して当時京都に事務所を構えていた私の叔父の事務所に業務補助のため勤務していた私の父も度々豪雪の中彦根から京都まで通っていてある日電車が遅れに遅れて朝10時頃に京都の事務所に遅刻して出勤した父を叔父は「何遅れとるんじゃ!!!」と叱り飛ばした、とのことだそうです・・・が、かつてそんな豪雪地帯に叔父も住んでいたはず。そんなこととうの昔に忘れていたんじゃないか、と父から愚痴を聞いた記憶があります。
因みに今は地球温暖化の影響か、彦根の実家付近も冬はあまり雪も積もらなくなりました。
いきなり1メートルくらい積もることもたまにありますがそれっきりでしばらく経つと溶けてなくなることが多いです。
その一方夏の暑さはかなりきついですね。まさか彦根の実家にもエアコンを付けなければならなくなるとは思ってもいませんでした。それでも京都に比べればはるかにましですが(朝晩の涼しさはやはり違いますね)。
・・・なかなか話したいことが前に進まないのですが、とにかく今思えば滋賀県に住んでいた頃は「狭い世界」でした。
次回は更にその辺りについてつらつらと触れていきたいと思います。

Childhood’s End(Part 1)


(私が生まれた1970年と滋賀県から京都府に引っ越した1985年のロイヤルコペンハーゲンのイヤープレートです)
私が滋賀県の彦根市出身という話はちょくちょくしていると思うのですが、早いもので父の独立開業と共に我々家族が京都に引っ越してから30年以上の歳月が流れました。
おかげ様で京都を中心に事務所の顧問先は順調に増え続けて今に至るのですが、滋賀県時代の所縁でお取引が続いている顧問先もありますし、何よりほとんどの父方母方の親戚が彦根周辺に住んでおられるということもあって、今も彦根と京都を行ったり来たりの生活が続いています。
私の父と父の兄(私の叔父)は非常に仲が良かったのですが、叔父が仕事の都合上あちこち飛び回らないといけなくなった際弟で末っ子である私の父に家の跡取りになって欲しい、とお願いした所、二つ返事でOKしたので私の父が本家になって彦根の実家の守りをすることになりました。
しかし叔父が紆余曲折を経て税理士になり成功を収めたのを見て私の父も税理士を志して見事合格、しかし自分が独立開業するためにはどこかの税理士事務所にて2年間の「業務補助」を行わなければなりません。
そこで私の父が頼ったのが京都に進出していた叔父の事務所でした。
当初は彦根から通っていたのですが、さすがに毎日通うのはきつい(当時彦根は豪雪地帯で電車が遅れに遅れて京都に到着したのが朝の10時なんてこともあったそうです。その昔そこに住んでいたはずの叔父は激怒したそうですが、もう昔のことは忘れていたんじゃないか、と思いました)ので叔父の事務所の顧問先の不動産屋の紹介で今の自宅を購入、そこを拠点に単身赴任の形で2年間の業務補助をこなし、叔父の事務所からのれん分けする形で独立開業、その際に我々家族も京都に出て来い、ということで私は昭和60年(1985年)4月に京都に引っ越してきたのでした。
しかし引っ越したはいいが実家はどうする、ということになるのですが、そこから私の代に至るまでの京都⇔滋賀の行ったり来たりの生活が始まったという訳です。
そんな訳で築140年の実家は今も健在であります。
何が大変だって実はその時私は中学3年生の4月だったんですよ。
因みに私の妹はちょうど小学校を卒業して中学1年生になった所でした。昔からそうなのですが私の妹は非常に運がいいし要領も良くて私とは真逆でした。
ただでさえ中3という非常に微妙な時期に何で引っ越しするんだよ、と文句言ってる間もなく&京都と滋賀は隣府県だというのに何から何まで違う次から次へと襲い掛かる強烈なカルチャーショック・・・。今思えばそれもいい思い出だったのかもしれません。しかし当時の私にとっては非常に大変なことだったと思います。
そんな訳で久々の更新ですが、これから数回京都に引っ越すという私の人生の最初のターニングポイントの前後の話をしたいと思います。
実はこのブログを開設した当初からいつかこの話をしないと、と思っていました。そしてそれによってその時代の話を”封印”したいとも思っていました。
有難いことに今年になってからかなり忙しくさせてもらってまして連続更新が難しいかもしれませんが、何とか勢いで更新したいと思います。
っつうかただの個人的な話だしさっさと片付けたいですし。
そんな訳でお付き合いよろしくお願い致します・・・。