Childhood’s End(Part 4)

不定期に幼少時代を振り返るシリーズ第4弾、今回は中学時代の部活の話です。
今年に入ってからほとんど忘れかけていたこの時代の記憶と共に、まさかこんな形であの頃やっていたことと再び向き合うことになろうとは・・・。
滋賀県時代の中学校はクラブ活動強制で生徒は全員何かのクラブに所属しないといけませんでした。
中三で引っ越した京都の中学校では強制ではなかったこともあって当時はクラブ活動を強制するのはどこもかしこもやってる訳でもないのかな、と思っていたのですが、最近は内申書にも反映される等むしろクラブ活動強制の流れが強くなっているのだそうですね。当然それに対する反対意見も出てきています(例: 「なぜ中高の「部活動」は”強制”になったのか?」http://toyokeizai.net/articles/-/83623)が、とにかく大人の言うことは絶対正しいと信じ込んでいた糞真面目な当時の私はクラブ活動強制はとても嫌だけど仕方がない、と思っていました。
クラブ活動で集団の中でのふるまい方や規律を学ぶという意味では強制は必要なことなのかも、とも思えるのですが、たかが中学生にそこまで高い意識を求めるのもどうよ、と言いたくもなります。
私もそうでしたがそんなに意識が高くない生徒にとっては苦痛以外の何物でもありません。
あと私の通っていた中学校は生徒数が少ないということもありクラブの種類も極めて少なく選択肢が限られるという問題点もありました。
以前から触れているように破滅的に運動神経がなくスポーツが超苦手な私にとってこれは深刻な問題でした。
人間誰しも得手不得手があるのに、それを顧みない教育方針には非常に疑問を抱かざるを得ないですね。
最近はネット上で同じような悩みを抱いていた人の発言を目にすることが多くなりました。
今でこそ問題を共有できる環境が整ってきたのですが、昔は一人一人がこの悩み/恨み/怒りの気持ちを誰にも伝えられず悶々としながら心の奥底に仕舞っていたんです。
教育関係者には猛省を促したいと共に当時そんな悩みを抱く必要のなかった人たちにはそんな我々の切ない気持ちを理解してもらいたいと強く願います。
そんな訳で結局消去法で私はブラスバンド部に入ることになりました。
本当は何もしたくなかったのですが、強制加入なので仕方がありません。
敢えて選択した理由を挙げれば、他の運動系のクラブは土日もなしで練習していたのですが、ブラスバンド部は基本的に日曜は休みだった(たまに日曜も練習があったかも)ことですかね。
他のクラブが土日なしで練習していたのは、んなもん将来社会人になったら土日も返上して仕事しないといかん時もあるぞ、という教育的配慮だったのかもしれません。当時はともかく今からみると完全に時代遅れな考え方だと思うのですが。
入部してまず担当パートを選ぶことになったのですが、私はトランペットを選びました。
理由は・・・何だったんでしょうかねえ?多分ほとんど女子ばかりの中男子部員の先輩がトランペットにいたからでしょうか?
トランペットを担当することになったのはいいのですが、まず音が出せるようにならないといけません。
トランペット等金管楽器はマウスピースで如何にして音を出せるようになるかが要なのですが、ちょっとしたコツを掴めば音は出るようになると思います。
そして1学期の夏休みにトランペットの中での担当パート(1st~3rd(1stが高音域を担当する→必然的に目立つ主旋律を担当することになるが難易度も高い))が決まったのですが、その時私は変な病気で絶対安静状態になっていました。夏休みの期間練習にも行けなかったのですが、担当の先生から電話で連絡が来て私は1stパートになりました。
普通喜ぶべきことだと思うのですが、全然嬉しくも感じませんでした。
というのもこれも今では考えられないことですが、とにかく当時はどれだけ勉強が出来ても音楽や美術が良く出来ても子供の世界ではスポーツが出来てなんぼでしたので。
私が一人で勝手に思い込んでいただけなのかもしれませんが、他のスポーツが出来る同級生と比してスポーツが出来ないんでブラスバンド、という入口からして当時感じていた劣等感は半端じゃなかったんです。そんな中でリードパート任せられた所で大したことないだろ、と。
基本あの時代スポーツが出来ない奴には居場所がなかったんですよ。まあ今からすると何でそんなつまらないことで悩んでたんだ、と言いたくなりますが。
今やブラスバンドも運動系のクラブ並みに花形だと思うのですが、少なくともあの時代のあの学校ではそんな印象は抱けませんでした。
実は当時でも市内の他の中学校のブラスバンド部をコンクール等の機会に目の当たりにすることもあったのですが、人数も多く編成も豪華でしかも技量も凄かった、それに比してうちは・・・と痛感したこともありました。
んなもん今の私だったらじゃあどうすれば他の中学に勝てるか、と真剣に考えていたと思うのですが、当時の私にはそこまで考える能力も器量もあるいはみんなをまとめるリーダーシップもなかったですね。いや、そもそもそんな発想が出てこなかったことでしょう。言われたことしかできませんでしたし、言われたことだけやってりゃいいや、と思ってましたから。
そんなこんなで滋賀県の中学には中二まで通っていてその2年間トランペットと向き合う時間はかなり長かったと思います。しかしあまり乗り気ではなかったです。
練習時間は非常に長く苦痛に感じていました。運動会の開会式で全校生徒の前でファンファーレを吹いたり文化祭では当然バンドで演奏もしていましたが、当時は音楽自体が今よりステイタスが低くてそれで人気者になれたのか、というとそんなことは全然なかったんじゃないか、と。
まあ私自身の意識があまりにも低すぎて自虐的になっていたのかもしれません。だって全校生徒の前でしかも1stパートの一番おいしい所吹いてるんですよ?あの頃の私が自分でも情けなく思えてきます・・・。
曲りなりにも2年間トランペットを吹いていたのですが、京都の中学に中三の4月というまた非常に微妙な時期に転校して全く違う環境に入って実はここでも一応ブラスバンド部に入っていたと記憶しています・・・が、とにかくめちゃくちゃに荒れていた学校で(本を読むのが大好きだったのに図書館にはカギがかかっていました→蔵書が盗まれるから・・・)クラブ活動もかなり適当にやっていた(一部陸上部等当時から非常に活発なクラブもありましたが)ので一応所属はしていましたがまともに練習すらしていなかったような。
その内高校受験等で忙しくなり自然に足が遠ざかっていきました。
高校にはブラスバンド部はなくクラブ活動も強制ではなかったのと余りにもカリキュラムがハード過ぎて(中高一貫校に途中から入ったのですが内部生は中三で高一のカリキュラムまで終えているのでそれに追いつかないといけなかった)高一の1学期で早々にドロップアウト・・・今回の話とはあまり関係がないので以後の話は割愛しますが、とにかく実質2年間という短い期間でしたがその間のかなりの割合の時間を割いて取り組んでいたはずのトランペットはいつの間にやら忘却の彼方に消え去り、30年近い月日が流れてしまいました。
・・・すみません、またしてもえらく長くなってしまいました。
30年間忘れていたはずのトランペットがまさかの復活、という話は次回にしますね。

Childhood’s End(Part 3)

私の幼少時代を振り返る内容、今年中に完結したかったのですが、もう少し書きたいことがあるので完結は来年廻しになりました。
私の子供が9歳になって色々なことをするようになってきました。
しかし今時の小学生はちょっと忙し過ぎるのではないか、と言いたくなるくらいですね。
うちの子供は近所の公立の小学校に通っていますが、ちょっと前までのいわゆる「ゆとり教育」の反動か、かなり授業のスケジュールがタイトになっているのに加え宿題だけでなく自主学習(やるやらないは生徒の自由ですがかなりプレッシャーかけられる)もしないといけません。
放課後も週二回のそろばん教室、ピアノとバイオリンのレッスン、塾とまではいかないのですが週1回学習教室に通って土曜日は近所の軟式野球チームで練習(これは自分からやりたいと希望した)しています。あとスポットでテニス教室や水泳教室にも行ってます。
夜になるとバタンキューですぐ寝てしまうのも納得です。
・・・私が9歳の頃とは全然違いますね。
上記の中で私がしていたのはそろばん教室とスポットの水泳教室(いつまで経っても泳げないのにシビレを切らした親が無理矢理通わせた→近所の公営プールで開催されている水泳マラソン(1回上限1000メートルで2年以内に42.195km泳げば完泳になって表彰してもらえる制度)を2回完泳している今となっては信じられないことですが)だけでした。他には特に課外活動はしていなかったと記憶しています。
前からここでお話しているように当時住んでいた場所は本当に田舎だったのですが、その気になれば同じくらいのことは出来たかもしれません。実際妹はピアノ習ってましたし(私も習っておけば、と今非常に後悔しているのですが→今からスタートしても大丈夫?)。
当時はまだ家庭用ビデオゲームもありませんでしたし、ではその有り余った時間に私は何をしていたのか?実は本ばかり読んでいました。
あとプラモデルを作ったりもしていたかもしれませんが、小学3年生ですしまだ可愛らしいものしか作ってなかったのでは、と思います。
とにかく本を読むのが大好きだった。自身も読書が好きだった父親(税理士試験大詰めの時期であまり構ってもらえなかったのですが→私が小学4年生の時に5科目合格(正確には6科目受かってしまった→その結果法律の定めで合格証書を貰えなかったという事件があったのですが))は特に読書を勧めてくれていたと記憶しています。確か「(おもちゃはダメでも)本ならなんぼでも買ってやる」と言ってましたっけ。
で、それ以外のことにはほとんど興味がなかったんですよ実は。
話にならないくらい運動神経がなくて外で遊ぶのもあまり好きでなかったし他に何かやりたいことがなかったんです。
これも今となっては信じられないことですが、私はパッと見おとなしいいい子の様に見えるのですが、実際は何をどうすればいいのかわからない、ビジョンも何もない、だから何もしたくない、ただそれだけだったんですよね。
小学校の卒業文集に将来何になりたいかを書く欄があって既にその時税理士になりたい、と記載したことを覚えているのですが、それも単に父親が合格して間もない時期でそれが何なのか全く理解もせず単純に親の跡を継げたらな、と漠然と思っていただけだったりします。
今思えばそれで大正解だったと確信を持って言えるのですが。
そんな訳であまり我が家には私が読みたくなるような本が置いてなかったので必然的に学校や市立図書館に通ってあれこれ本を読み漁ることになりました。図書館に通うのはとても楽しかったですね。
それだけじゃ飽き足らず友達の家や親戚の家にうちに置いていない本があれば(正直厚かましいのですが)それを本棚から引っ張り出して読んだりもしていました。
母方の親元に遊びに行った際外に遊びに行こうともせず置いてあった百科事典ばかりむさぼるように読んでいたら叔父にひどく怒られたことがありました。しかし何でそんなことで怒られないといけないのだ、と不快に思ったりもしたものです。
今だったら逆にそんな言い方はないだろう、と言い返してたと思いますが、この頃は超弱気で何も言い返せませんでした。
叔父としては子供は外で遊ぶもの、という固定観念があったのかもしれません。あの時代なら猶更そうでしょう。
でも私はそういう考え方は納得がいかなかったです。何をしようが勝手じゃないか、指図なんかしないでくれ・・・しかし誰もそれを理解してくれる人がいなくて寂しい思いをしていました。
あと小学生時代はかなり病弱、というかすぐ風邪をひいていたように記憶しています。
これも今思えば考えられないことです(ここ数年風邪ひいていないような気がする&風邪ひいても休んでいられないので基本気合で1日で治すように心がけています)が、やはり「病は気から」と言うようにとにかく何事に関してもやる気がない、外に出て何かしたいと思わないという性格からそうなってしまっていたのでは、と思います。
その点私の子供は度々皆勤賞を取ってくるのは偉いな、と思います。
基本的に多忙な日々ですがそれらを楽しんでいるみたいなので。ここらは当時の私とは全然違うような気がします。
そんな訳で今のうちの子供と同じ年の頃の私は日々悶々としていました。
この頃に数年後に登場する初代ファミコンのような家庭用ゲーム(既に存在していたかもしれませんが、田舎で所得もさほどない家庭ではそんなものは高嶺の花でした)なんぞが存在していたらどうなっていたことか、と思いますが、それも含め私の周りの環境が劇的に変わっていく(というか変わりすぎてしまう)のはその数年後のことになります・・・。
続きはまた来年。

Childhood’s End(Part 2)

前回の続きです。滋賀県時代の思い出話。
そもそも何でこんなことを書こうと思った、いや正確には以前から書こうと思っていたことを思い出したのかというと、先日故郷彦根の顧問先でひょんなことで昔話になったからでした。
滋賀県時代に通っていた小学校/中学校(公立ですが今は小中一貫校になっているそうです→生徒数が激減したから?)のプールの水が異常に冷たくて泳ぐのが辛かったことを唐突に思い出したのですが、そこからよくこんな環境の場所に住んでいたなあ、という話になっていました。
それは今住んでいる京都との比較だけでなく、顧問先のある彦根の市街地と私が住んでいた彦根市の北端の山寄りの場所(10kmも離れていない)の学区とを比較しても全然違う、ということです。
プールの水が冷たいのは今思い出しても尋常ではなかったです。唇が青くなってた生徒がいたように記憶しています。
基本的に私の子供時代、すなわち今から30~40年前は今より平均気温が低かったと思います。真夏でも最高気温は30℃くらいで32℃でも暑くてたまらない、と思っていました。
そんな訳で震えながらプールに入っていた(因みに今私はその気になれば500mくらいはノンストップで泳げますが、当時はまともに泳げませんでした・・・が小学6年生の頃ようやく50mは泳げるようになっていたと記憶しています)のですが、本当に辛かったです・・・が生徒全員条件は一緒だしそれで当たり前なのかな、とも思っていました。
琵琶湖や市街地にある市民プールだったら水温も暖かかったのですが、本来それが普通ということに気付いてなかったんですよね。
但し当時の琵琶湖は非常に水が汚かったのですが。生活用水垂れ流しでしたからねえ。よくあんな場所で泳いでたもんだ・・・。
そう、「生徒全員条件は一緒」ということで錯覚していたのかもしれません。
当時の私は今思えば何と劣悪な環境なんだ、と思える当時の環境を当たり前と考えていたみたいです。
とにかくあの頃は何もかもが「狭い世界」でした。
まず実家のあった場所が山に囲まれていたため空が狭かったですから。そしてその空は高かったです。
あの頃は飛行機が高い場所にきれいな飛行機雲を描いて飛んでいくのをよく見ていました。
私の叔父から聞いた話ですが、今から70年近く前太平洋戦争の終戦直前には北陸方面に爆撃に向かうB-29「スーパーフォートレス」がきれいな飛行機雲を描いて北に向かって飛んで行ったとのことです。こんな田舎の村には爆弾落とすこともなかったんでしょうね。
そして先述の通り今から30~40年前平均気温が低いのは夏だけでなく冬も然り。
当時は12月に入るや否やドカドカと雪が積もり少し溶けたかと思うとまた積もり・・・で冬の間は真っ白な光景が続きました。
さすがに北陸や東北地方の様に何メートルも積もることはなかったですが、1メートルは普通に積もってました。3月上旬でも1メートルくらい積雪があったことも記憶しています。
彦根市の除雪車(というかブルドーザー→戦車みたいに無限軌道が付いているので雪を退けてくれるのは有難かったのですがブルドーザーが通った後道路のアスファルトがボロボロになった)がやってくるのが昼過ぎになったりしてひどい時はふもとの町にある学校に行けなかったこともありました・・・が「雪が多すぎて学校に行けません」と電話で連絡したら「何言うとるんじゃ授業やってるぞ!!!」と言われて無断欠席扱いになったこともありました・・・。
確かに社会人の皆さんは雪道を歩いて勤務先に行かれましたが、さすがにこれは理不尽だな、と思ったものです・・・が、税理士試験に合格して当時京都に事務所を構えていた私の叔父の事務所に業務補助のため勤務していた私の父も度々豪雪の中彦根から京都まで通っていてある日電車が遅れに遅れて朝10時頃に京都の事務所に遅刻して出勤した父を叔父は「何遅れとるんじゃ!!!」と叱り飛ばした、とのことだそうです・・・が、かつてそんな豪雪地帯に叔父も住んでいたはず。そんなこととうの昔に忘れていたんじゃないか、と父から愚痴を聞いた記憶があります。
因みに今は地球温暖化の影響か、彦根の実家付近も冬はあまり雪も積もらなくなりました。
いきなり1メートルくらい積もることもたまにありますがそれっきりでしばらく経つと溶けてなくなることが多いです。
その一方夏の暑さはかなりきついですね。まさか彦根の実家にもエアコンを付けなければならなくなるとは思ってもいませんでした。それでも京都に比べればはるかにましですが(朝晩の涼しさはやはり違いますね)。
・・・なかなか話したいことが前に進まないのですが、とにかく今思えば滋賀県に住んでいた頃は「狭い世界」でした。
次回は更にその辺りについてつらつらと触れていきたいと思います。

Childhood’s End(Part 1)


(私が生まれた1970年と滋賀県から京都府に引っ越した1985年のロイヤルコペンハーゲンのイヤープレートです)
私が滋賀県の彦根市出身という話はちょくちょくしていると思うのですが、早いもので父の独立開業と共に我々家族が京都に引っ越してから30年以上の歳月が流れました。
おかげ様で京都を中心に事務所の顧問先は順調に増え続けて今に至るのですが、滋賀県時代の所縁でお取引が続いている顧問先もありますし、何よりほとんどの父方母方の親戚が彦根周辺に住んでおられるということもあって、今も彦根と京都を行ったり来たりの生活が続いています。
私の父と父の兄(私の叔父)は非常に仲が良かったのですが、叔父が仕事の都合上あちこち飛び回らないといけなくなった際弟で末っ子である私の父に家の跡取りになって欲しい、とお願いした所、二つ返事でOKしたので私の父が本家になって彦根の実家の守りをすることになりました。
しかし叔父が紆余曲折を経て税理士になり成功を収めたのを見て私の父も税理士を志して見事合格、しかし自分が独立開業するためにはどこかの税理士事務所にて2年間の「業務補助」を行わなければなりません。
そこで私の父が頼ったのが京都に進出していた叔父の事務所でした。
当初は彦根から通っていたのですが、さすがに毎日通うのはきつい(当時彦根は豪雪地帯で電車が遅れに遅れて京都に到着したのが朝の10時なんてこともあったそうです。その昔そこに住んでいたはずの叔父は激怒したそうですが、もう昔のことは忘れていたんじゃないか、と思いました)ので叔父の事務所の顧問先の不動産屋の紹介で今の自宅を購入、そこを拠点に単身赴任の形で2年間の業務補助をこなし、叔父の事務所からのれん分けする形で独立開業、その際に我々家族も京都に出て来い、ということで私は昭和60年(1985年)4月に京都に引っ越してきたのでした。
しかし引っ越したはいいが実家はどうする、ということになるのですが、そこから私の代に至るまでの京都⇔滋賀の行ったり来たりの生活が始まったという訳です。
そんな訳で築140年の実家は今も健在であります。
何が大変だって実はその時私は中学3年生の4月だったんですよ。
因みに私の妹はちょうど小学校を卒業して中学1年生になった所でした。昔からそうなのですが私の妹は非常に運がいいし要領も良くて私とは真逆でした。
ただでさえ中3という非常に微妙な時期に何で引っ越しするんだよ、と文句言ってる間もなく&京都と滋賀は隣府県だというのに何から何まで違う次から次へと襲い掛かる強烈なカルチャーショック・・・。今思えばそれもいい思い出だったのかもしれません。しかし当時の私にとっては非常に大変なことだったと思います。
そんな訳で久々の更新ですが、これから数回京都に引っ越すという私の人生の最初のターニングポイントの前後の話をしたいと思います。
実はこのブログを開設した当初からいつかこの話をしないと、と思っていました。そしてそれによってその時代の話を”封印”したいとも思っていました。
有難いことに今年になってからかなり忙しくさせてもらってまして連続更新が難しいかもしれませんが、何とか勢いで更新したいと思います。
っつうかただの個人的な話だしさっさと片付けたいですし。
そんな訳でお付き合いよろしくお願い致します・・・。

Decade of…

今日は私の父の命日です。
父はちょうど10年前の今日56歳の若さで急逝しました。
あまりにも唐突な出来事で残された家族全員、そして事務所の従業員の皆さんもどうしたらいいのか茫然としました。
あれから月日は流れ早10年。様々なことがありましたが何とかここまでやってくることが出来ました。
父ががんばって築き上げた基礎があったからこそ残された全員が奮起してやってこれたのだと思います。
私のような未熟者と引き続きお付き合いしていただいた先代の時代からの得意先の皆様、私の代になってから新たにお付き合いの始まった得意先の皆様、そして様々な場所でお世話になっている皆様にも感謝したいと思います。
これからも初心を忘れないで引き続きがんばっていきたいと思いますので、どうか今後ともよろしくお願い致します。
個人的には10年前といえばまだ資格も中途半端でしたし、妻も子供もいませんでしたし、そんなところを考えてみても本当に劇的に環境が変わったように思います。
でも個人的にやりたいことに割ける時間がなくなってしまったことがちょっと悲しいですね。。。まあそういうことは「老後の楽しみ」にでも取っておきましょうか。

私の出身地

平日は忙しくて週末しか更新が出来ませんねえ。申し訳ないです。
そんな週末も土曜日はちょっと仕事していました。仕事自体が多いのか、はたまた私の要領が悪いのか、とにかく片づけないといけないことがあれこれあって参ってます。
2月になれば毎年恒例の確定申告業務が始まりますのでそれまでにある程度目途を立てないといけません。あと1週間で終わるのでしょうか・・・。
前回は阪神大震災の頃のお話をしましたが、今回はもっとさかのぼった時代の話をしたいと思います。他人の昔話なんぞ聞きたくないや、と思われる方も多いかと思いますが、案外こういう話が私の自己紹介になるのでは、と考えていますので、もう少しお付き合い下さい。

“私の出身地” の続きを読む

15年

今日で「阪神大震災」から丸15年。もうそんなになるんですね。
この阪神大震災があった平成7年は私にとっても非常に印象深い年でした。正に「ターニングポイント」と言うべき年でした。
阪神大震災の時私は会計士試験の浪人中でした。その日も「早朝答練」(私は会計士の受験のため専門学校に通っていたのですが、そこでは毎日朝の7時半から計算問題のテストがありました。頭の冴えている内に計算問題を解きましょう、という趣旨です)のため6時ちょうど発の電車に乗るべく慌ただしく朝食を取ってさあ出かけるぞ、という時にこれまで経験したことのない猛烈な揺れがやってきたのです。(私の住んでいる所は京都の南部で地震の被害は大したことはありませんでしたが、震度は4~5程度だったと記憶しています)駅に行ってみたのですが全て電車はストップしていて混乱していました。仕方がないので家に戻ってテレビをつけてみると神戸だけ震度が出ていなくてしかも神戸に近づく程震度は上昇していました。それが何を意味するのかは数時間後にわかったのですが。
専門学校は3日間お休み(噂話ですが、私の通っていた専門学校の近くに別のライバル校があったのですが、当時そこの東京校の講師が「地震なんかで勉強休んでいてはいけませんよ」という趣旨の発言をしていたそうです。全くもって無神経な発言だと思いました。尤もその専門学校は今はなくなってしまったのですが)になり私は何とか通学も再開したのですが、一緒に勉強していた神戸方面の知人の中にはショックで通学出来なくなってしまった人もいました。(彼はこの年無事合格しましたが)
この年の3月には地下鉄サリン事件も起こり世間一般的にも非常に衝撃的な出来事が続いた一年だったと思いますが、私個人としては3回目の受験でようやく会計士二次試験に合格出来た年としても記憶される年でした。しかし税理士をしていた私の父が9月に食道ガンを患っていたことが発覚、10月初旬の合格発表の1週間後に手術をすることになった年でもありました。父は病床にて非常によろこんでいたのですが、私としては正直苦労して二次試験に合格したのに喜びは完全に打ち消されてしまいました。専門学校が主催する合格者祝賀会に参加したのですが、喜びを爆発させていた他の合格者の輪に入る気持ちになれず途中で早退したくらいです。おまけにこの年は前年に引き続き会計士試験合格者の就職難という問題が発生しまして(昨今は合格者数が私の頃とは比べ物にならない程増加しているため結構大きなニュースとして取り上げられるようになりましたが私の頃は全然話題になりませんでした)ただでさえ就職先がないというのに父の手術後に病院で母と12時間交代で付いていないといけなかったためほとんど就職活動に動けないという状況に追い込まれてしまいました。当然私は無職です。しかし遊んでいても仕方がないので11月から私の父の事務所を手伝うことにしたのです。当時としては苦渋の決断でしたが、今思えばこの4年半後に父が急死するとは露にも思っていませんでしたのでこれで良かったのかもしれません。
思いもよらず昔話を披露することになってしまいましたが、「プロフィール」を補足する上では案外有用な話かな、と思いました(何で事務所の開業が昭和60年なのかな?という疑問は解けたと思います)のでこの続きの話をまたの機会にさせてもらいたいと思います。