15年

早いもので今日で私が税理士登録してからちょうど15年になりました。
期間の長さだけでいうと私の父が税理士をやっていた期間に並んでしまいました。
そんなになるんだ、と思う一方確かにそれだけの期間は経っているよな、とも思えます。
ただその期間何かしら重い物をずーっと引きずり続けていたような気がします。
というのも、父が病気で亡くなり急遽私が事務所を引き継がなくてはならなくなったからです。
それ以前に実は私がようやく会計士の二次試験(当時)に合格した時は合格発表の1週間前に父が食道がんにかかっていたことが判明、更に前年から始まっていた会計士補(当時二次試験に合格した人がなれる資格)の(その後何度も繰り返されましたが多分初めての)超就職難に巻き込まれ監査法人に就職できなかった(確か私が合格した年は関西で150人くらい合格したが就職できたのはその中で50人程度だったと記憶しています)というダブルパンチで合格の喜びを完全に叩き潰されたという経験がありました。
本当は非常にナイーブな私にとってあれは辛すぎました。折角苦労して受かったと思ったら何でそんな仕打ちを受けなければならないのだ、と・・・。
幸いその時の父の手術は成功して一命を取り留めました。またどこかで業務補助をしないと会計士三次試験(これに受からないと会計士になれない→それ故に税理士登録もできない)の受験資格を得られないのですが、その問題も近所の金融機関経由で非常勤で監査法人に働くルートを紹介していただくことが出来て何とか最低限の解決はできました(しかし期間が短かったので監査実務はほとんどやってないに等しい→普通の人は苦労しない三次試験で非常に苦しめられることになりました)。
しかし父の病気が4年半後に再発、それがわかった時点でもう手遅れと診断されてそれから3週間後に父は急死したのです。
実はこの時点で私は三次試験にまだ合格していませんでした。
この事務所存続の危機の時助けて下さったのが私の叔父でした。
元々父が業務補助の際既に税理士として成功されていた叔父の事務所に勤めてそこから暖簾分けする形でスタートしているのですが、再度お世話になることになりました。
叔父は私が三次試験に合格するまでは面倒見る、とおっしゃって来ていただきました(自分の事務所は既に一緒に働いておられた私のいとこに譲られました→そこまでして私の面倒を見ていただくことになり非常に恐縮でした)。それから2年後ようやく私は会計士三次試験に合格、晴れて公認会計士/税理士登録してやっとスタートすることになったのです。
二次試験の時があんなことになっただけに三次試験合格の喜びは殊の外大きかったですね。
しかしすぐに厳しい現実と向き合うことになりました。
そもそも私の父と取引していた顧問先の社長は当然私の年齢と比して親子くらい離れている所がほとんどですし、やはり「あんたのお父さんと付き合ってたんだからなあ」という感じで見られていたと思います。そんな視線はヒシヒシと感じていました。まだ実務経験も浅く本当に右も左もわからない「ひよっこ」の私にとっては物凄いプレッシャーでした。
しかしそれに怯んでる間もなく次から次へとやらねばならないことが増えていきます。その中にはこれは私でないと解決できない(非常に特殊な事情があって多分父も知らないことが出て来たりした)のでは、と思うようなこともありそれらを苦労して解決していく内に私自身も信頼を得られるようになったのでは、と感じましたし少しずつ自信も付いていったような気がしました。
更に父の死は本当に突然だったため父が途中でやり残したことが沢山ありました。中には20年越しの案件なんてものもありました。
しかしそれらも様々な苦労を経て何とか解決することが出来ました(20年越しの案件は苦渋の選択を何とか了承して戴いたという感じでしたが)。
正直どんな案件が来ても何とかなりそうだな、と思えるようになったのは私の名前で事務所をスタートして10年目くらいだったのでは、と思います。
細かいことは割愛しますが父が残した「負の財産」(これもかなりでかかった・・・)を処理するのにようやく目途が付いた時期と重なります。
この間に起きた大きな変化は遅ればせながら私も結婚したことと子供ができたことではないでしょうか。そしてこの変化が私を大きく支えてくれたのは間違いないです。
会計士三次試験に合格して会計士/税理士登録した時点では私は家族を持つなんてことは全然頭にありませんでした。
そんな面倒臭いことしたくないしこのまま独身でもいいや、と思っていたのですが、その直後から物凄い量のお見合いの釣書をあちこちから戴くことになりました。ピーク時は毎週末お見合いしていたような・・・(誰が誰かわからなくなるくらいでした)・・・が、結局ひょんなことで電撃的に恋愛結婚してました。
正直こればかりは決まる時はあっさり決まるもんだな、というのが素直な感想ですね。
あとよく言われるのが結婚したら独身時代の趣味が続けられなくなるのが嫌、という意見ですが、それはやり方次第ではないでしょうか。
確かに結婚してから数年間はそれどころじゃないくらい超多忙な日々が続きましたが、今や独身時代以上に様々な趣味にのめり込んでいるんじゃないか、と思うのですが。
これは妻と趣味の接点が全くないこと及び互いの趣味には不干渉の立場を取っているということも大きいと思います。
5年前にも登録10周年、という内容の記事を書いているのですが、その時に「3代続けて50代では死なない」という何じゃそりゃ?と言いたくなる今後の目標を掲げています。
実は私の祖父は父よりもっと早い51歳で事故で亡くなっています。故に三代続けて50代で死ぬのはさすがに格好悪いだろ、ということです。
しかし間もなくその50代が近づいてきました。現時点では体調は悪くないと思いますし(体重が増えているのが気になりますが・・・)この調子でがんばっていきたいですね。事故はどうしようもないのかもしれませんが。
様々な問題の解決、生活環境の変化を経てこれまで引きずってきた物の重しはようやく無くなったように思えます。
これも全て先代の時代から続いている、あるいは私の代からお世話になっている取引先の皆様、それ以外に普段お付き合いのある皆様、そして家族のおかげだと思います。
この場をお借りいたしまして厚く御礼を申し上げたいと思います。
これからは前進あるのみ!!!
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

事務所移転します

今年もいよいよ大詰めです。そして今年もこちらは年末しか更新が出来なかったみたいですね(苦笑)
お陰様で今年も大変忙しく過ごした1年でした。ここ数年あれこれと公的な役職を務めていたのですがそれらのいくつかが任期満了に伴い無事退任することが出来て今年の後半はここ数年にないくらい比較的「自分の時間」を持つことが出来ました。ここぞとばかりこれまでやりたかったのですが出来なかったことをあれこれとすることが出来ました。例えば8年前に勉強を開始したものの急遽結婚することが決まり断念した宅建(宅地建物取引主任者)の資格試験に挑戦したり。結果は不合格でしたが(最近ようやく自己採点したのですが・・・正直お話にならないレベルでした→ちと自分に腹が立ったので再度チャレンジします!)。
そしてこれもここ数年来の悲願だったのですが、事務所を移転する段取りがようやく整いました。
最終の詰めの作業がまだ残っているのですが、予定では来年の仕事始めから新事務所に移転して仕事をスタート致します。場所は現在の事務所の道路を挟んで向かいになります。
そもそも何故事務所を移転しようと考えたのかと言いますと、先代が自宅の裏に立てた今の事務所ですが、困ったことに地盤沈下していまして、看板やガレージの柵が目に見えて傾いていたり、室内ではドアノブが閉まらなくなっていたりあちこち雨漏りがしていたり(事務員の机の真上が雨漏りしていました)壁にヒビが入っていたりで踏んだり蹴ったりの状態になっていました。事務所より10年近く前に建てた南側すぐ隣の自宅は(一度リフォーム工事はしていますが)全く大丈夫だというのに・・・。
元々今の事務所の場所はその昔は湿田だったそうです。それ故に今も地下水の影響で冬場になると湿気で結露して複合機で印刷が出来なくなる、という問題も起きていました。
とりあえずヒーターを付けてもらって何とか問題解決したのですが、音が結構目立つんですよね。余計な電気も消費していますし。
そして元々その自宅を事務所と兼ねてスタートしたのですが、それから北側に事務所を購入したり事務所の規模が大きくなるに連れて電話のシステムが複雑怪奇になってしまいどうも余計な電話代を支払っているのはわかっていたのですがどこから手を付けたらいいのかわからない状態になっていましたし、インターネットは自宅から無線LANを飛ばす、というかなり綱渡り的な環境だったり、という具合にあれもこれも問題だらけになっていました(他にもあれもこれも問題は山積みでしたが書くと長くなるので省略)。
そんな訳で数年前から事務所の移転を考えるようになったのですが、当初は自宅を事務所に戻して我々の自宅を近所に移そう、と考えていました。
税理士登録の際「郵便物の届く所在地に登録してくれ」と言われたので登記簿上は事務所所在地と自宅が違うのですが(郵便物が届く)自宅を事務所所在地として登録したので自宅を事務所にすれば変更手続きが要らないので楽だし妻があれこれと自宅に関して注文を付けるのでその問題も解決できる、と踏んだという次第です。
で、実は近所に自宅の候補地として(記憶が間違いなければ)十数年前から空き地になっていた南向きのいい土地がありまして、そこを顧問先の不動産関係の仕事をされている方や司法書士の先生に調べてもらった(持ち主に直接交渉して売ってもらおう、と考えていました)のですが、全く無しのつぶてで(登記簿に掲載されている所有者の住所に行っても誰もいない、とのこと)売買交渉は無理、という結論になりました。
実はこの土地、新しい事務所がほぼ完成しつつあった時期に何と売りに出ました・・・。何てこったい、と思わざるを得ないです。何というタイミングの悪さ・・・。
しかし売りに出していた業者は登記簿上の土地の所有者の住所とは全然違うエリアの業者だっただけに、最初からここを取得するのは無理だったのかな、とあきらめも付いたのですが。
そんな折に今年の2月頃自宅と事務所の道路を挟んで向かい側が宅地開発される、という看板(開発許可申請)が掲げられました。
さあどうする?ここは思い切って行くべきかどうか・・・と思う間もなく案外あっさりとこの区画のどこかを取得すべし、と決めていました。だって道路挟んで向かいですもの。どう考えてもこれはおいしいですよ。
で、当初はそちらに自宅を移そう、と考えて妻にも提案したのですが、何と却下されました・・・。あんたあれだけ自宅別の場所に移りたい、と言ってたのに・・・。
何でも結婚して実家から移り住んで8年、今の自宅は場所もいいし陽当たりもいいし隣の方も親切でいい人なのに新しい場所に行ってまた別の人と近所付き合いするのはしんどい、とのこと。
そして妻からは「事務所をそっちに移したらええやん」との提案が。実は私そのアイデア全然思いついてなかったんですよ・・・。なーんだ、その手があったか、と。
そんな訳で看板に記載されていたディベロッパーに電話して「まだ空いてますか?」と尋ねたら、ラッキーなことに西南の角の1号地は空いている、とのこと。速攻押さえることに成功しました。
しかし何とこの時点で隣の2号地を既に押さえられている方がいたのだそうです・・・。2号地には既に入居されているのですが、実は近所から引っ越されてきた方でとても感じのよさそうな一家です・・・がこの方が私の事務所の顧問先の知り合いだったりしましてその方から2号地に来られる方がどんな家族なのかを聞かされたりしています。うーむ世間は狭いというか何というか・・・。
7月に正式に売買契約を締結しまして9月頃から建築開始、よりによって11月の私の子供の誕生日に引渡しが完了しまして、そこからあれこれ準備作業を(仕事の合間をぬって少しずつチマチマとやっていきました)進めて今週になってようやくインターネット回線、電話工事、机や椅子の運び込み等が終わって、仕事納めを待って明日コンピューターや複合機を移転してLANやネット環境を再構築してやっとこさ移転作業に目途が付きます。
何せ道路を挟んで向かいですので資料・ファイル等は後からでも必要なものを少しずつ運べばいいのがありがたいですね。実際はセキュリティの入れ替え(大切なことなのに忘れてた(苦笑))等の作業は来年回しになってしまいましたが、とりあえず仕事始めには間に合いそうです。しかし私の資格の変更登録や案内状の送付やらまだまだしないといけないことは山積みです。まあそれらはぼちぼち片づけていくことにしますが。
来年からは心機一転、今まで以上に気合を入れて仕事に邁進して行きたいと思います。
皆様これからもどうぞよろしくお願いいたします!!!

京青税卒業

私は平成14年に近畿青年税理士連盟京都支部(以下「京青税」:http://www.aozei.org/)という税理士の任意団体に入会しました。
この会は(京青税ホームページより→上部組織の「近畿青年税理士連盟」について)「近畿一円より集まった1,000名超の若手税理士の団体で、『納税者の権利を護り、租税制度の改善と税理士制度の発展』を願い、若き情熱を持って活動しています。豊かな人間性を育みながら会員同士の連帯を深め、スペシャリストとして、より納税者の信頼を得られる税理士になれるよう、『親睦と研鑚、税理士制度の研究』に努めています。」という団体(の京都支部)であります。
会員の種別として「正会員」「特別会員」があるのですが、正会員は原則として40歳を超えたら卒業することとなっていまして、この度6月に開催された定期総会をもって私も晴れて卒業(=特別会員に移行)することとなりました。
この京青税には亡き父も所属していて仲間の税理士の皆さんと和気藹々楽しく活動していました。
実はこの青税(全国組織:近畿青年税理士連盟には更に上部の組織として「全国青年税理士連盟」が存在します)は基本的には5科目の税理士試験に合格した人を対象としている組織なのですが、皆さんご存知のように公認会計士の資格で税理士登録をしているような私でも先輩諸氏は優しく受け入れて下さいました。
この懐の深さが京青税の最大の魅力ではないか、と思いました。その思いは活動を続けていく内に益々強くなっていきました。
これは余談ですが、実は私の父は税理士試験(必須科目、選択科目合計5科目合格する必要がある)は5科目合格すればいいところ最終年度で2科目合格して合計6科目合格していたりします。ところがどういう訳か6科目合格してしまうと合格証書がもらえないという決まりになっているそうで、私の父は税理士の合格証書を持っていませんでした(のですが当然税理士になる資格は付与される)。確かに私も父の合格証書は見たことがありませんし。
約10年間の京青税所属期間中私は様々な部会に所属していましたが、最初に所属したのが制度部でした。
制度部とは文字通り税理士制度に関する研究を行う部門で、青税の根幹をなす部と言っても過言ではありません。
税理士は税法や会計に関する法律等に関する勉強は仕事を遂行する上で当然必要になるので皆さん必死になって勉強する(努力義務規定ではありますが税理士には研修受講制度もあります→http://www.nichizeiren.or.jp/taxaccount/training.html参照)のですが、税理士という制度自体を規定する税理士法や国税に関する一般法である国税通則法といった法律は非常に重要なのに勉強する機会は意外なことにあまりないような気がします。
制度部ではこれら税理士制度に関する法規定や諸問題を勉強するのですが、青税に入っていなければ私は税理士制度に対して関心を持ったり問題意識を持ったりすることは決してなかったでしょう。
先述の通り青税は基本的に税理士試験合格者を対象としているため、私のように公認会計士の資格で税理士を登録するというのは青税的には「?」となってしまうのですが、公認会計士に限らず様々な「入口」が存在する税理士資格取得制度に関する問題点を意識するということは非常に勉強になったと思います。この問題に関しては様々な意見が存在すると思いますが、現時点で既に様々な道をたどって税理士の資格を取得している人がいる訳ですし、それぞれの立場で前向きに建設的な意見を出し合ってよりよい税理士制度の構築に邁進していくべきではないのでしょうか。
制度部でよく行われた勉強の形式に「公開勉強会」がありました。これは制度部員だけでなく京青税会員に限らず税理士なら誰もが参加可能(私も一度ですが京青税会員でない税理士が参加している時に参加したことがあります)で制度部員の研究発表の後ディスカッションを行う、というものです。
入会間もない頃は研究発表のレベルの高さやディスカッションでの白熱した議論に正直「何これ・・・」と戸惑い、怖ささえ感じていたものですが、時が経ち私も公開勉強会の講師を担当したり制度部例会では皆さんの前でマイクを持って話すようになりましたし、冊子の原稿も執筆するまでになりました。
この仕事をしていますと必然的に人前で話をしたり原稿を執筆したりする機会が多くなるのですが、その基礎的なノウハウを叩き込まれたように感じています。
10年間で制度部の他にも様々な部会に所属していましたが、トータルでは広報部のウエイトが一番大きかったのではないか、と思います。
過去の広報誌を見返してみますと結構ちょくちょくと原稿を執筆していたりしますし、何より正会員最終年度に最初で最後の部長を担当したのも広報部でした。
私は京青税以外の諸団体であれこれと役職を歴任しているのですが(単に頼まれたら断れないだけのような気もするのですが(苦笑))、単年度事業とはいえこの京青税の部長という職は最も大変なのでは、と想像していました・・・がやはり予想通りこの1年間は本当に大変でした。
部長就任後早速広報誌の編集に取り掛かったのですが、(昨年ここでも触れましたように)子供から「手足口病」を伝染されてしまいいきなり出鼻をくじかれたりもしました。しかし部員の皆さんやその他多くの皆さんのご協力により(多くの方々に原稿を依頼するのですが、断られたりしたらどうしよう、と不安になったりもしたのですがほとんど皆さん快く引き受けていただきました)何とか1年間走りきることが出来ました。
実はこの京青税では会員同士で結婚するという凄い縁もありました。
妻はほぼ私と同時期に京青税に入会したのですが、その頃は会えば普通に会話する、という程度の仲だったのですが・・・人生何があるかわかったもんじゃありません。
今では妻から子供と一緒に「ぶたおやじ!」と呼び捨てられる有様ですが・・・。
それも含めて京青税には感謝してもしきれない気持ちでいっぱいです。
京青税での多くの出会い、多くの経験、多くの体験が基本的にヘタレだった(今もそうですけど)私に自信を与えてくれて、私を大きく変えてくれたと確信しています。本当にありがとうございました。
これからは特別会員として一歩退いた場所から正会員のサポート役に回っていければ、と考えています。
何せここで妻と出会っているのですから、足を向けて寝られませんものね!

Decade Of Decadence・・・?

いつもながら、こちらでは皆さんお久しぶりです。
本当になかなかこちらを更新しようとしても時間がなくてついついfacebookばかり書き込んでしまっています。申し訳ありません。
少なからずこちらのブログを見ておられる方がおられるみたいですし。先日はこのブログを見て約7年ぶりに連絡いただいた方もおられたりします。
何とかマメに更新できるよう努力いたします・・・といつも言いつつなかなか出来ないのですが、気持ちだけは常に持っておりますので。
という訳で、実は今日は私が税理士登録してちょうど10年になるという日であります。
長いようであっという間(「短い」とは言いませんよ)の10年間でした。振り返ってみれば本当にいろいろなことがあったと思います・・・が正直いろいろなことがあり過ぎて詳細にわたってはあまり思い出せないんですよね。
少なくとも結婚して子供までいる、という今の状況は10年前には全く想像できませんでした。まあとにかくそれまでの人生ではそちら方面の縁は全然ありませんでしたからねえ・・・。
あとこれは余談ですが、3年前の今日マイケル・ジャクソンが亡くなったんですよね。それでこの日は絶対忘れられない日になったような気がします。
ちなみに今年の4月で公認会計士登録からも10年が経ちました。
しかしこちらはすっかり忘れていたりしたのですが(苦笑)一応下っ端ながら京滋会の役員もさせてもらっているだけにちょっとうっかりしていたな、と思ったのですが。
とにかくここまでやって来れたのも普段お世話になっている顧問先をはじめ、家族、同業者、近所の皆さん、友人、その他多くの皆様のおかげであることは間違いありません。改めてこの場をお借りして皆様に厚く御礼申し上げます。
10年間とにかくがむしゃらにやってきましたが、本当は目の前の仕事やら何やらをこなすだけで精一杯だっただけのような気がします。
自分の方から攻めの姿勢でなんてとてもとても無理でした。でも子供頃の私が「将来どんなことしているんだろうなあ」と想像していた自分よりもはるかに高い場所にいるような気がします。
父の急逝という事情もありましたがそれももう一昔前の話になりつつあります。
父は税理士を15年登録していたのですが、実は私は年数だけでいけば父のキャリアの2/3まで来ているんですよ。もし私が父と一緒だったとしたらあと5年で終わることになるんですよ。そんなの絶対嫌ですよね。
私の目標は「三代続けて50代では死なない。」肩すかしみたいに思われる方も多いかもしれませんが、もうそれだけで十分です。(ちなみに祖父も51歳で事故死しています)先述の通り既に子供の頃想像していた場所なんかよりはるかに高い場所にいるんですから。
但しこの目標をクリアするためにあれやらこれやら考えていく必要があると思います。まあしかしあまり深く考えなくても上手くいくんじゃないかな、と思うんですけどね。綿密に計画立てて行動したところで卓袱台ごとひっくり返されることを何度も経験しているだけに。これから不確実性が高まる時代を迎えることは間違いないだけに猶更そう思うのですが。
ただ締めるべき場所ではきちんと締める、嫌なことからは決して逃げない、突発的に何かが起きても慌てない、これだけは絶対守っていきたいと考えています。これまでの10年間同様に。
今回のタイトルに関してですが(単にモトリー・クルーのベストアルバムのタイトルそのままなのですが(笑))「Decadence」という言葉を調べていただければわかると思うのですが、まあ確かにこの10年間機会があれば酒ばかり飲んでいたとは思いますけど(苦笑)、19世紀末の芸術のように既成の価値観に疑念を抱くという意味もあるのでは、と思います。
やっぱ生き残るためには人とは違うことをしないといけませんよ。とは言うもののあまり気合い入れ過ぎても仕方がないと思いますが。
まあ慌てないで毎日できることから少しずつやっていけばいいのではないでしょうか。何より続けることが重要ですよ。
相変わらずのらりくらりとしたことしか書いていないような気がしますけど、これからも一生懸命頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

袋町

気が付けば今年も12月になりました。早いものです。
今年の1月1日から開始したブログですが、終わってみれば本当にほとんど更新出来ませんでした・・・。
Twitter(http://twitter.com/manchanbuhibuhi→「まんちゃん」というのは妻が私を呼ぶ呼称、「ぶひぶひ」というのは私の体重のことです(苦笑))には結構頻繁に書いていたのですが、ブログに記事を書くとなるとあれこれ文章を考えないといけないのでつい億劫になってしまうんですよね。
という訳で今回はまたしても実家絡みの話(仕事関係でもありますが)です。
去る11月に実家の近所の顧問先で税務調査がありました。約5年振りでした。
私の事務所とは先代の頃からの長い付き合いで元々は私の家がその顧問先の得意先でした。まだ結論は出ていないのですが、変な所ばかり集中的に調べられたので正直参りました・・・。
調査が終了して社長と一緒に飲みに行ってきました。場所は彦根の繁華街である「袋町」という場所です。
・・・金曜の晩だというのに何この閑散とした有様は・・・。
祇園や北新地のようにいわゆる「レジャービル」が立ち並んでいるのですが、ビル全体まるごと明りがついていなくて(つまりテナントが入っていない)まるでゴーストタウンのような状態でした。
社長が馴染みにしているお店に入って(ここはにぎやかだった)あれこれと話をしていたのですが、その昔(少なくとも私が実家に住んでいた頃)は平日でも歩いていると歩行者と肩が当たるくらい物凄く賑わっていたのだとか。それが今やこの有様・・・。
考えてみたら当たり前かもしれません。
というのは、その昔彦根には錚々たる企業の工場がひしめきあっていました。住友セメント(現住友大阪セメント)、オーミケンシ、カネボウ・・・。
実は私の両親は住友セメントで勤務していてそこで知り合ったのですが、彦根工場は全国でもトップクラスの規模を誇っていました(’70年代TBS系でゴールデンタイムに放送されていた「野生の王国」という番組は住友グループがスポンサーでしたが、住友セメントのCMの最後ではこの彦根工場が大写しになっていました)・・・が高度経済成長期には花形産業だったセメント業界も衰退の道を歩み出しとうとう彦根工場も閉鎖されてしまいました。今はその跡地ではユニクロとヤマダ電機が店を構えています。この場所を見ているだけで絵に描いたような企業の栄枯盛衰の歴史がわかります。
オーミケンシも琵琶湖岸に巨大な工場を構えていました(太平洋戦争中はB-29の爆撃も受けている)が、繊維業界の衰退と共にここも閉鎖され、今は群馬県に本社があるベイシアグループの巨大ショッピングモールになっています。カネボウに関してはもう説明不要だと思います(巨額粉飾決算で解体されてしまいついでに監査を担当していた監査法人も消滅してしまいました)。
今もキリンビールやブリヂストンや大日本スクリーン(最近になってフジテックがやってきましたが)といった大企業の工場は健在ですが、先に挙げた企業に比べると小粒であることは否めないと思います。
とにかくこれが地方都市の惨状なのか、と愕然としました。少なくとも前回税務調査があった時今回と同じように袋町に飲みに連れて行ってもらった時と比べてもここまでひどくはなかったような。
更に歴史を遡れば江戸時代といえば彦根藩は徳川御三家の次、譜代大名筆頭という非常にステイタスの高い地位にあった(これは彦根が当時の交通の要所だったということも関係している)というのに、正にその頃から比べれば地獄の底に落ちるが如き成り下がり振りです。
まあ飲んでいる時はとりあえず調査も終了したという安堵感もあって楽しかったのですが、改めて思い出してみると本当にショックでした。何とかならないのか、と。
今の日本の閉塞感は正に地方の疲弊に象徴されると思います。
三大都市圏に住んでいる人たち(私も一応そうなのですが)には理解できないことなのかもしれません。
しかしこの閉塞感を打ち破るためには地方の復権が不可欠なのではないでしょうか。どうすればいいものか途方に暮れるばかりですが。

確定申告終わりました

昨日無事電子申告で全て送信終了しました。
お客様にも無事終了した旨お伝えしたいと思います。誠にありがとうございました。
事務所の従業員の皆さん、母親、そして妻の全面的な協力のもと今年度も無事確定申告業務を終えることができました。
この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。
昨年度から基本的に全て電子申告で提出するようにしているのですが、そのおかげか従業員の皆さんの残業時間が減少したように思えます。
社会保険労務士事務所の方にちょうど確定申告業務が始まる直前に労働基準法の絡みで残業時間に関する特例(お任せしているのであまり細かくは把握していないのですが)の申請を出してもらったのですが、今までならそれでも労働基準法に抵触するかも、というくらいどうしても残業時間が長くなっていたのですが、今回はその点に関しては問題なくクリア出来たのでは、と思います。
ただそのしわ寄せ(?)が私に来ていたような気がするのですが。電子申告の送信は私のパソコンからしか出来ないんですよねえ。そんな訳で私は連日遅くまで(と言っても日付が変わるかどうか、というくらいです)事務所に残っていました。
昔はその程度残業していてもどうってことなかったのですが、今回はかなりきつく感じました。正直身を削って作業しているような感じもしました。
まだ私は30代なのにそんなこと言うと「何言ってるんだよ!!!」とお叱りを受けそうなのですが、やっぱり私も少しずつ年を取ってきているのでしょうか・・・。
という訳で事務所は18日(木)・19日(金)と確定申告期間中土曜日出勤にした分を振り替えて臨時休業させてもらいます。
私は明日からお休みさせてもらいます。
たまにはゆっくりしたいですねえ・・・。
とりあえず一年で一番忙しい時期が終わりましたので、これからはホームページの更新もマメに出来るように努力していきたいと思います。
とはいうものの、3月決算が多いし(実は4~6月に決算期を迎えるお客さんも多いのですが)、確定申告期間中は(皆さんのご配慮もあって)お休みになっていたあれこれ役職の仕事もまた再開されますし、案外忙しい日々が続くような気がしますね・・・。例年のことですが。

新年会三連荘

私の仕事はお酒を飲む機会がどうしても増えてしまうのですが、今年も始まって早々に水曜日から三連荘で新年会が続きました。実は明日も新年会があるので正確には四連荘なのですが。
水曜日は京都税理士協同組合(http://www.kyozei.or.jp/)の常務理事会。場所は「木乃婦」(http://www.kinobu.co.jp/→音が出るので注意)。
私は若造なのにここで常務理事(総務委員長)を担当しています。小一時間ですがきっちり常務理事会として会議をしてから(意外なことに議論が白熱して15分会議の時間が伸びた)新年会に突入。かなりの量の日本酒(以降「酒」)を飲んだのですが、物がいいのか翌日に全然残らなかったような気がします。
木曜日は京都税理士協同組合の総務副委員長(税理士としては先輩なのですが)と一緒にJR京都伊勢丹の中の「市場小路」にておでんを突っつきながら今度開催される委員会の打ち合わせ。
ここでも結構議論が白熱して気が付けばしっかり1時間経っていました。でもその後しっかり2時間は飲んで食ってましたけど。お互い酒が好きですしいろいろと話が盛り上がりました。
金曜日は京都信用金庫(http://www.kyoto-shinkin.co.jp/)と宇治エリアの税理士で構成されている「宇治税京信クラブ」の新年会。
場所は(この会ではよく使う)宇治の「辰巳屋」(http://www.uji-tatsumiya.co.jp/)。これは純粋に「新年会」という訳でガンガン酒を飲みまくってました。
何故か私が取引している支店の支店長と店舗に置いてある雑誌の話で盛り上がってしまった。っつうか何で「週刊文春」(実はこの雑誌が週刊誌で一番売れている→故に買いそびれることがあるのよ)が金融機関の店舗に置いてないんだ、と酒に酔った勢いで私が言い出したからそんな話になってしまったのよ・・・。ライバル関係にある金融機関の支店には「週刊新潮」や「女性セブン」は置いてあるんだけど&女性週刊誌は見出しに騙されてはいかん(実は実用的な記事が多い→マネーの話題とか私の視点から見ても鋭いな、という記事多かったりする。それ以上に女性の視点から見たあれやこれやの記事に唸らされることがしばしば。あと音楽の話題でもホワイトスネイクとかデフ・レパードとかミスター・ビッグとか「BURRN!」(ヘヴィ・メタル/ハード・ロック専門誌)かよ、というアーティストが出てきたりするのよ。全くもって油断出来ません)とか経済誌を置くなら「日経ビジネス」「週刊東洋経済」よりミーハー度が強い「週刊ダイヤモンド」がいいと思うとか近所のゆうちょ銀行には「オレンジページ」が置いてあるけど主婦層には案外そういう雑誌を置くのがいいんじゃないのとか「Kansai Walker」等の雑誌を読む世代の人は金融機関に足を運ぶ客層とはずれてるんじゃない・・・などと言いたい放題。でも参考になったんじゃないかな、と(勝手に)思ってるんですけど。
まだお酒が残っててへろへろ状態なのでぼちぼち寝ます。
今後こんな日記も増えるんだろうなあ・・・。(苦笑)