Childhood’s End(Part 4)

不定期に幼少時代を振り返るシリーズ第4弾、今回は中学時代の部活の話です。
今年に入ってからほとんど忘れかけていたこの時代の記憶と共に、まさかこんな形であの頃やっていたことと再び向き合うことになろうとは・・・。
滋賀県時代の中学校はクラブ活動強制で生徒は全員何かのクラブに所属しないといけませんでした。
中三で引っ越した京都の中学校では強制ではなかったこともあって当時はクラブ活動を強制するのはどこもかしこもやってる訳でもないのかな、と思っていたのですが、最近は内申書にも反映される等むしろクラブ活動強制の流れが強くなっているのだそうですね。当然それに対する反対意見も出てきています(例: 「なぜ中高の「部活動」は”強制”になったのか?」http://toyokeizai.net/articles/-/83623)が、とにかく大人の言うことは絶対正しいと信じ込んでいた糞真面目な当時の私はクラブ活動強制はとても嫌だけど仕方がない、と思っていました。
クラブ活動で集団の中でのふるまい方や規律を学ぶという意味では強制は必要なことなのかも、とも思えるのですが、たかが中学生にそこまで高い意識を求めるのもどうよ、と言いたくもなります。
私もそうでしたがそんなに意識が高くない生徒にとっては苦痛以外の何物でもありません。
あと私の通っていた中学校は生徒数が少ないということもありクラブの種類も極めて少なく選択肢が限られるという問題点もありました。
以前から触れているように破滅的に運動神経がなくスポーツが超苦手な私にとってこれは深刻な問題でした。
人間誰しも得手不得手があるのに、それを顧みない教育方針には非常に疑問を抱かざるを得ないですね。
最近はネット上で同じような悩みを抱いていた人の発言を目にすることが多くなりました。
今でこそ問題を共有できる環境が整ってきたのですが、昔は一人一人がこの悩み/恨み/怒りの気持ちを誰にも伝えられず悶々としながら心の奥底に仕舞っていたんです。
教育関係者には猛省を促したいと共に当時そんな悩みを抱く必要のなかった人たちにはそんな我々の切ない気持ちを理解してもらいたいと強く願います。
そんな訳で結局消去法で私はブラスバンド部に入ることになりました。
本当は何もしたくなかったのですが、強制加入なので仕方がありません。
敢えて選択した理由を挙げれば、他の運動系のクラブは土日もなしで練習していたのですが、ブラスバンド部は基本的に日曜は休みだった(たまに日曜も練習があったかも)ことですかね。
他のクラブが土日なしで練習していたのは、んなもん将来社会人になったら土日も返上して仕事しないといかん時もあるぞ、という教育的配慮だったのかもしれません。当時はともかく今からみると完全に時代遅れな考え方だと思うのですが。
入部してまず担当パートを選ぶことになったのですが、私はトランペットを選びました。
理由は・・・何だったんでしょうかねえ?多分ほとんど女子ばかりの中男子部員の先輩がトランペットにいたからでしょうか?
トランペットを担当することになったのはいいのですが、まず音が出せるようにならないといけません。
トランペット等金管楽器はマウスピースで如何にして音を出せるようになるかが要なのですが、ちょっとしたコツを掴めば音は出るようになると思います。
そして1学期の夏休みにトランペットの中での担当パート(1st~3rd(1stが高音域を担当する→必然的に目立つ主旋律を担当することになるが難易度も高い))が決まったのですが、その時私は変な病気で絶対安静状態になっていました。夏休みの期間練習にも行けなかったのですが、担当の先生から電話で連絡が来て私は1stパートになりました。
普通喜ぶべきことだと思うのですが、全然嬉しくも感じませんでした。
というのもこれも今では考えられないことですが、とにかく当時はどれだけ勉強が出来ても音楽や美術が良く出来ても子供の世界ではスポーツが出来てなんぼでしたので。
私が一人で勝手に思い込んでいただけなのかもしれませんが、他のスポーツが出来る同級生と比してスポーツが出来ないんでブラスバンド、という入口からして当時感じていた劣等感は半端じゃなかったんです。そんな中でリードパート任せられた所で大したことないだろ、と。
基本あの時代スポーツが出来ない奴には居場所がなかったんですよ。まあ今からすると何でそんなつまらないことで悩んでたんだ、と言いたくなりますが。
今やブラスバンドも運動系のクラブ並みに花形だと思うのですが、少なくともあの時代のあの学校ではそんな印象は抱けませんでした。
実は当時でも市内の他の中学校のブラスバンド部をコンクール等の機会に目の当たりにすることもあったのですが、人数も多く編成も豪華でしかも技量も凄かった、それに比してうちは・・・と痛感したこともありました。
んなもん今の私だったらじゃあどうすれば他の中学に勝てるか、と真剣に考えていたと思うのですが、当時の私にはそこまで考える能力も器量もあるいはみんなをまとめるリーダーシップもなかったですね。いや、そもそもそんな発想が出てこなかったことでしょう。言われたことしかできませんでしたし、言われたことだけやってりゃいいや、と思ってましたから。
そんなこんなで滋賀県の中学には中二まで通っていてその2年間トランペットと向き合う時間はかなり長かったと思います。しかしあまり乗り気ではなかったです。
練習時間は非常に長く苦痛に感じていました。運動会の開会式で全校生徒の前でファンファーレを吹いたり文化祭では当然バンドで演奏もしていましたが、当時は音楽自体が今よりステイタスが低くてそれで人気者になれたのか、というとそんなことは全然なかったんじゃないか、と。
まあ私自身の意識があまりにも低すぎて自虐的になっていたのかもしれません。だって全校生徒の前でしかも1stパートの一番おいしい所吹いてるんですよ?あの頃の私が自分でも情けなく思えてきます・・・。
曲りなりにも2年間トランペットを吹いていたのですが、京都の中学に中三の4月というまた非常に微妙な時期に転校して全く違う環境に入って実はここでも一応ブラスバンド部に入っていたと記憶しています・・・が、とにかくめちゃくちゃに荒れていた学校で(本を読むのが大好きだったのに図書館にはカギがかかっていました→蔵書が盗まれるから・・・)クラブ活動もかなり適当にやっていた(一部陸上部等当時から非常に活発なクラブもありましたが)ので一応所属はしていましたがまともに練習すらしていなかったような。
その内高校受験等で忙しくなり自然に足が遠ざかっていきました。
高校にはブラスバンド部はなくクラブ活動も強制ではなかったのと余りにもカリキュラムがハード過ぎて(中高一貫校に途中から入ったのですが内部生は中三で高一のカリキュラムまで終えているのでそれに追いつかないといけなかった)高一の1学期で早々にドロップアウト・・・今回の話とはあまり関係がないので以後の話は割愛しますが、とにかく実質2年間という短い期間でしたがその間のかなりの割合の時間を割いて取り組んでいたはずのトランペットはいつの間にやら忘却の彼方に消え去り、30年近い月日が流れてしまいました。
・・・すみません、またしてもえらく長くなってしまいました。
30年間忘れていたはずのトランペットがまさかの復活、という話は次回にしますね。