Childhood’s End(Part 2)

前回の続きです。滋賀県時代の思い出話。
そもそも何でこんなことを書こうと思った、いや正確には以前から書こうと思っていたことを思い出したのかというと、先日故郷彦根の顧問先でひょんなことで昔話になったからでした。
滋賀県時代に通っていた小学校/中学校(公立ですが今は小中一貫校になっているそうです→生徒数が激減したから?)のプールの水が異常に冷たくて泳ぐのが辛かったことを唐突に思い出したのですが、そこからよくこんな環境の場所に住んでいたなあ、という話になっていました。
それは今住んでいる京都との比較だけでなく、顧問先のある彦根の市街地と私が住んでいた彦根市の北端の山寄りの場所(10kmも離れていない)の学区とを比較しても全然違う、ということです。
プールの水が冷たいのは今思い出しても尋常ではなかったです。唇が青くなってた生徒がいたように記憶しています。
基本的に私の子供時代、すなわち今から30~40年前は今より平均気温が低かったと思います。真夏でも最高気温は30℃くらいで32℃でも暑くてたまらない、と思っていました。
そんな訳で震えながらプールに入っていた(因みに今私はその気になれば500mくらいはノンストップで泳げますが、当時はまともに泳げませんでした・・・が小学6年生の頃ようやく50mは泳げるようになっていたと記憶しています)のですが、本当に辛かったです・・・が生徒全員条件は一緒だしそれで当たり前なのかな、とも思っていました。
琵琶湖や市街地にある市民プールだったら水温も暖かかったのですが、本来それが普通ということに気付いてなかったんですよね。
但し当時の琵琶湖は非常に水が汚かったのですが。生活用水垂れ流しでしたからねえ。よくあんな場所で泳いでたもんだ・・・。
そう、「生徒全員条件は一緒」ということで錯覚していたのかもしれません。
当時の私は今思えば何と劣悪な環境なんだ、と思える当時の環境を当たり前と考えていたみたいです。
とにかくあの頃は何もかもが「狭い世界」でした。
まず実家のあった場所が山に囲まれていたため空が狭かったですから。そしてその空は高かったです。
あの頃は飛行機が高い場所にきれいな飛行機雲を描いて飛んでいくのをよく見ていました。
私の叔父から聞いた話ですが、今から70年近く前太平洋戦争の終戦直前には北陸方面に爆撃に向かうB-29「スーパーフォートレス」がきれいな飛行機雲を描いて北に向かって飛んで行ったとのことです。こんな田舎の村には爆弾落とすこともなかったんでしょうね。
そして先述の通り今から30~40年前平均気温が低いのは夏だけでなく冬も然り。
当時は12月に入るや否やドカドカと雪が積もり少し溶けたかと思うとまた積もり・・・で冬の間は真っ白な光景が続きました。
さすがに北陸や東北地方の様に何メートルも積もることはなかったですが、1メートルは普通に積もってました。3月上旬でも1メートルくらい積雪があったことも記憶しています。
彦根市の除雪車(というかブルドーザー→戦車みたいに無限軌道が付いているので雪を退けてくれるのは有難かったのですがブルドーザーが通った後道路のアスファルトがボロボロになった)がやってくるのが昼過ぎになったりしてひどい時はふもとの町にある学校に行けなかったこともありました・・・が「雪が多すぎて学校に行けません」と電話で連絡したら「何言うとるんじゃ授業やってるぞ!!!」と言われて無断欠席扱いになったこともありました・・・。
確かに社会人の皆さんは雪道を歩いて勤務先に行かれましたが、さすがにこれは理不尽だな、と思ったものです・・・が、税理士試験に合格して当時京都に事務所を構えていた私の叔父の事務所に業務補助のため勤務していた私の父も度々豪雪の中彦根から京都まで通っていてある日電車が遅れに遅れて朝10時頃に京都の事務所に遅刻して出勤した父を叔父は「何遅れとるんじゃ!!!」と叱り飛ばした、とのことだそうです・・・が、かつてそんな豪雪地帯に叔父も住んでいたはず。そんなこととうの昔に忘れていたんじゃないか、と父から愚痴を聞いた記憶があります。
因みに今は地球温暖化の影響か、彦根の実家付近も冬はあまり雪も積もらなくなりました。
いきなり1メートルくらい積もることもたまにありますがそれっきりでしばらく経つと溶けてなくなることが多いです。
その一方夏の暑さはかなりきついですね。まさか彦根の実家にもエアコンを付けなければならなくなるとは思ってもいませんでした。それでも京都に比べればはるかにましですが(朝晩の涼しさはやはり違いますね)。
・・・なかなか話したいことが前に進まないのですが、とにかく今思えば滋賀県に住んでいた頃は「狭い世界」でした。
次回は更にその辺りについてつらつらと触れていきたいと思います。

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